中嶋幸三『井上伝蔵 秩父事件と俳句』

 中嶋幸三氏の伝蔵論は、わが地域の総合誌『文芸秩父』誌上で、ときどき読んでいましたが、それを集大成したのが、この本です。

 秩父事件と井上伝蔵を主題とした本で、わたしが今まで目を通したのは、小池喜孝『秩父颪』(現代史出版会 1974)と、新井佐次郎『秩父困民党会計長 井上伝蔵』(新人物往来社 1981)です。

 小池氏の本は、伝蔵の北海道時代を掘り起こし、関東一斉蜂起説についても言及したものですが、支配者中心の歴史とも、階級闘争の図式をあてはめただけの歴史とも異なり、現代を生きる人間が「掘り起こし」という形で主体的に歴史に関わっていく中で、歴史を書き換えていくというダイナミックな「民衆史運動」の問題提起が、衝撃的でした。
 新井氏の本は、秩父という狭い地域の中で、井上伝蔵という強烈な生き方がどのようにして形成されていったのかを、丹念に復元しようとした、好著でした。

 中嶋氏の本は、伝蔵の残した俳句を通して、彼の生き方に焦点を当てた作品です。
 第一部は、俳句を軸にしながら、政治や文化の渦の中で、伝蔵の秩父時代について、考察しています。
 新井氏の著作が出て以降、秩父事件に関する研究は着実に深化してきており、「明治12年聯合村議会日誌」などの新資料も発見されています。
 この本では、それら新しい研究成果を取り入れて、井上伝蔵の人物像を再構成しています。

 秩父における俳諧の普及については、森山軍治郎『民衆蜂起と祭り』(筑摩書房 1981)が、明らかにしたところですが、俳号逸井を名乗る伝蔵が、文化的・思想的にどのような位置にあったのか、この本によっても明らかにされたと思います。

 第二部は、俳号柳蛙を名乗った伊藤房次郎こと伝蔵の北海道時代について、彼の句を鑑賞しながら、書かれています。
 句の周辺を洗いながら、句に込められた彼の思いに迫ることで、逃亡死刑囚である伝蔵の生活や心象風景が生き生きと描かれており、今まで、どちらかといえば、伝蔵は、息をひそめながら事件への思いを暖めていたというイメージを持っていたのですが、北海道でも伝蔵はやはり伝蔵らしく生きていたのだと、感じました。

 どこで、どのような暮らしをしていても、人は、その人らしく生きていくものなのですね。

 ちょっとした用語のまちがいが散見されます(小池喜孝氏のことを嘉孝氏としているなど)が、秩父事件についてあまり知らない人でも、十分にわかりやすく書かれています。
 ご一読をおすすめします。

(ISBN4-89709-343-0 C0023 \2600E 2000,9 邑書林刊 2000,11,21 読了)