本多勝一『リーダーは何をしていたか』

 学校山岳部や商業ツアー登山など、近年の引率型登山のもつ深刻な問題点についてきびしく警鐘を鳴らす書。

 山岳部と商業ツアー登山は、それぞれ独自の深刻な問題を抱えていると思いますが、引率登山だという点では共通しています。
 本書が提起しているのは引率登山のあり方についてです。

 現代人は、快適にコンディショニングされた環境のもとで暮らしています。
 中年以下のほとんどは、快適でない(暑い、寒い、濡れる、危険等々)環境に、生まれたこの方身を置いたことがないであろうと思われます。
 むろん通常は、快適でない環境にわざわざ身を置く必要などありません。

 山登りを含む野遊びは、極めて快適でない環境に身を置く可能性を想定して行われます。
 ローインパクトを原則とすべき野遊びにおいて、快適に過ごすことの優先順位は、かなり低位に位置づけられるからです。

 山岳部はチームワークとして登山を行います。
 チームのメンバーが希望や意見を徹底的に出し合い、全員の手で計画を作るのは当然ですが、準備にあたっても実行にあたってもチームの組織的な力を必要としますから、ワガママは言えません。

 一方で、現在の学校では、教師が決めた「期待される生徒像」に合致しない生徒が矯正され、排除される傾向を強めています。
 それは、教師にとって管理しやすい生徒づくりという面もあるでしょうが、そのような生徒を求める大学や企業の意向を無視できないという事情が背景にあります。

 これらのことが、生徒の自由闊達な山行研究を阻害していないとは言えず、どのような山行を行うかはチームで計画されるとはいえ、顧問教師のアドバイスが相当の重みを持っている(場合によっては顧問がすべてを決める)学校も、現実にはあるのではないかと思います。

 どのような形で作られたにせよ、チームの実力以上の山行など計画すべきではありません。
 また、想定されるすべての困難に対処できる知恵・技術・用意が必要なことはいうまでもありません。

 山歩きは、季節・山自体の困難さ・天候などさまざまな状況下において、体力・技術・知識などおよそ人間にとって総合的な能力を駆使しながら楽しむことのできる点に、もっとも大きな魅力があるわけです。

 1年前から山岳部顧問を担当し、引率登山に関わるようになって、単独あるいは友人たちとの山行とは異なる難しさがあることがわかりました。

 単独行の場合、自分の力とルートのレベルとを秤にかけ、自分の力がはるかにまさっていると思えば、山行を決行してかまわないのです。
 しかし、集団山行の場合、個々の参加者の能力とチーム全体の能力とを総合的に把握しなければなりません。
 本書に告発された教師たちに欠けていた能力(誠意のような人間性の欠如は問題外として)は、そのような総合的な能力把握であったと思われました。

 一方で、本書にまったく記載されていない高校山岳部の落とし穴もあります。
 それは各自治体における近年の財政難のため、引率教師に正式の出張命令を出さないケースがあるということ。

 いかなる場合にも、引率教師は計画段階から全力で取り組むことを義務づけられているはずですが、学校運営の責任者たる校長は、きびしく経費の節減圧力をかけられているようです。

 以前わたしが勤務していた埼玉県立小鹿野高等学校では(山岳部の活動ではありませんが)、野外活動において生徒の安全を確保するため一定数の引率教師を確保するようにと現場が要求しても、校長は頑としてそれを拒んだものでした。
 管理職は、そんなに心配なら行事をヤメロという態度でしたが、教師たちは自費あるいは同僚のカンパによって仕事をしたものでした。

 しかし、現場教職員の使命感にのみ依存した教育活動には限界があります。
 まして、給与に連動する数値化された勤務査定が始まった今、危険の多い仕事を引き受ける意欲が萎えそうになるのも事実です。

 教育労働の数値化という無意義な成果主義に抵抗しつつ、自分と生徒の力を見きわめ、力を高める努力を続けねばならないと思いました。

(ISBN4-02-261199-5 C0195 \600E 1997,7 刊 朝日文庫 2006,2,24 読了)