藤木久志『刀狩り』

 1588年に豊臣秀吉が出した、いわゆる刀狩令の実態をあとづけた本。

 江戸時代における民衆の武器所有や維新期の廃刀令、戦後の占領軍による武器回収まで、権力側が民衆の武器保有にどのように対応してきたかについても論じられています。

 著者は戦後日本人の中に、近世以来民衆は武装解除されていたという幻想があったと、指摘されています。
 そういわれればその通り。

 職業的研究者でないとはいえ、日本近世史を専攻したわたしも、刀狩令は民衆の武装解除を目的としていたと理解していました。
 かといって、近世民衆の手元に鉄砲や刀剣類が存在したことは、地方(じかた)の文書(もんじょ)を少し繙けばわかること。

 わたしの理解は、「刀狩令によりいったんは武装を解除されたものの、害獣駆除のための銃砲の所持は届け出の上容認されていた(これは事実)し、刀剣類については喫煙などと同様、非合法に所持するものも例外的には存在した」というものでした。

 高校の歴史教科書(『詳説日本史B』山川出版社)にも、「秀吉は一揆を防止し、農民を農業に専念させるため、1588(天正16)年刀狩令を出し、農民の武器を没収した」とあります。

 刀狩令によって実際に没収されたのは刀と長脇差の一部に過ぎず、刀をめぐる禁令は、近世初期にかけて身分制度確立のための風俗統制の一環として機能していたということです。

 幕藩制時代には民衆・権力の双方が武力衝突する際にも、武器の使用は自制されていました。
 武州世直し一揆においても、武器使用の自制という意識が働いていましたが、蜂起の展開の中でそのような意識はほころびつつありました。

 幕藩制的な秩序意識からの解放をもたらしたのが世直し状況だったとすれば、武州一揆の過程の中で質的に新たな展開があったと理解できるでしょう。

 日本民衆の全面的な武装解除がほぼ実現したのは、アジア・太平洋戦争での敗戦後、占領軍によってでした。
 没収された銃砲・刀剣類が、一部を除いてアメリカ兵の土産になったというのは釈然としませんが、これによって建前としては武器なき社会が実現されたのですから、歴史的には大きな意義があったと思います。

 かつて埼玉県深谷市内に在勤当時、校地に埋められていた大量の三八式歩兵銃を見ました。
 銃床は腐って消滅し、銃身はぼろぼろにさび果てていましたが、占領軍の探索から銃を隠匿しようとする軍関係者の執念を示したものだったのでしょう。

(ISBN4-00-430965-4 C0221 \780E 2005,8 刊 岩波新書 2006,1,19 読了)

月別 アーカイブ