稲沢潤子『山村で楽しく生きる』

 渓流釣りや山歩きをしているうちに、日本という国における山村と都会との関係、といったことについて、考えるようになりました。


 都会から山村を訪れる人の多くは、山村の自然を愛してくれる人びとです。
 都会には少なくなった四季の移ろいや、美しい景観、野生の生き物とのふれあい、さらに山村独特の人情にふれることなどは、自然を愛する都会人のアイデンティティの回復の意味をもっているのではないかと思います。

 都会人から自然を守れという声があがるのは、とてもよくわかります。
 しかし、釈然としないこともあります。
 自然は、都会の人がストレスを解消するためにあるのではないからです。

 日本の自然は、日本人の暮らしとともに、作られてきたものです。
 毎度おなじみの仮説(妄想?)ですが、イワナは山を棲み家としていた日本人が育て、守ってきたサカナではないのかと、私は思っています。

 明治時代以前の山の暮らしは、らくではなかったと思います。
 しかし、山には山のにぎわいがあり、山の豊かさというものもあったのではないでしょうか。
 だって、山には、町にはない山の幸がたくさんあったではありませんか。
 鳥やけもの、さまざまな用途に用いられる材木、熊の胆をはじめとするさまざまな漢方薬などは、山でしか手にはいらなかったのです。

 宮沢賢治の『なめとこ山の熊』に出てくる猟師小十郎は、「くま。おれはてまへをにくくて殺したのでねえんだぞ」といいながら、熊を撃つ人です。その小十郎が、町へ熊の皮を売りに行くときは、とてもみじめなのです。なぜか。
 小十郎は「ほかの罪のねえ仕事していんだが、畑はなし、木はお上のものに決まったし、里へ出てもたれも相手にしねえ。仕方なしに猟師なんどしるんだ」といっています。

 米は作れなくても、食べるくらいの雑穀ができ、ぜいたくはできなくても、みじめでない程度の暮らしができなくなったのは、山が町に原料や労働力を供給するだけの存在に転落したからではないのでしょうか。

 その構造は今も変わりがありません。
 たとえば秩父は、リゾート法の指定をうけ、バブルの絶頂期には、あちこちで雑木林をなぎ倒して、いろんな建物や遊園地が作られました。都会から、客を呼ぶために。
 私の住む集落には、公共交通というものがまったくありません。
 でも、バスは走っているのです。
 西○鉄道の遊園地に客を運ぶためのシャトルバスが。
 このバスは、集落内には停まらないのです。

 山村は町に、自然を提供し、ダムを造って水を提供し、遊園地を作る土地を提供する。
 何百年ものあいだ助け合い、信頼し合ってきた人間関係さえ犠牲にして。
 土を重機でいじくれば、仕事にはなります。
 そしていくばくかのお金を得る。
 しかし、山村が復興する見通しは、全くなし。
 いずれ別のカンフルがなければ、行きづまるのは目に見えています。

 自分が食うためにイワナを育てた(妄想です)山人はもはやおらず、渓は荒れ、リゾート施設同様、捨てられたゴミがあふれつつあります。

 山村でふつうに生きていける社会はできないのでしょうか。

 この問題を解くヒントがたくさんある本を見つけました。

 信濃川支流の中津川流域にある長野県栄村の取り組み。
 栄村は、秋山郷のある村。雑魚川、魚野川という有名渓流をかかえる村。鳥甲山や苗場山のある村です。

 くわしくは本をお読みいただきたいのですが、自然を町に切り売りするのではなく、自然を大切にしつつ、町と対等の立場で村づくりをしていこうしている様子が描かれています。

 採算がとれない村営バス。でもそれがあるおかげで、人が残ってくれた方がいいと考える行政の発想。
 村民ホラ吹きコンクールで頭をやわらかくして村おこしを考えようという発想。
 今年つくる村営スキー場を、村民と都会の人との交流の場にしたいというポリシー。
 猫つぐらやそば、和紙、雑穀など特産品の掘り起こし。
 村振興公社主催のキノコ学習会などなど。

 ここに書かれているように、すべてうまくいっているとはちょっと信じられませんが、山村が生き返るために必要なことがなんなのか、ぼんやりとですが、わかったような気がします。

(ISBN4-88023-083-9 C0095 P1800E 1996,10月 本の泉社刊 1997,3,17読了)