入江曜子『日本が「神の国」だった時代』

 国民学校時代の教科書の特徴を分析した本。
 サブタイトルに「国民学校の教科書をよむ」とあります。

 国民学校とは、1941(昭和16)年度から敗戦までの時期に、初等教育を担った学校です。
 それまでの小学校をこの時期には国民学校と呼んだと言ってもいいのですが、学校の名称を変えただけではなく、教育の目的や内容も、小学校と国民学校とでは大きく変えられています。

 一言で言えば国民学校の教育は、神懸かり的天皇制を子どもたちに注入することによって、国民の意識のすべてを戦争に動員することを目的としていたといっていいでしょう。
 この時期の教育の目的は、天皇制と戦争でした。

 この時代、天皇制と戦争のどちらが究極の国家目的だったのか、あるいはそのどちらもが別の国家目的のための手段だったのかについては何とも言えません。
 というのは、この二つがほとんど同義語に等しいと言えるほど、天皇制は戦争のための仕掛けとして機能していたし、天皇制は戦争によって対内的・対外的に膨張していったからです。

 「大東亜戦争の時代」はまさにこの本のタイトルにあるように、日本が神の国だった時代でもあるのです。
 戦後日本において、平和を望むということが天皇制に抵抗することとほぼ同義語であったのは、歴史をきちんと学んだものにとっては、当然のことだったといえます。

 御用マスコミが嘘を書き立て、ネット上で嘘の歴史が氾濫し、恥ずべき歴史を隠した恥ずべき教科書が一部で使われ始めているのはたいへん危機的な事態であるとは思いますが、「神の国」の時代にまで逆戻りするには、まだ長い道のりが必要かとも思います。

 戦争と天皇制を支える人間づくりの特徴は、「思考しない人間」「判断しない人間」を育てること、「感覚的な刷り込みの多用」「絶対服従の態度の養成」「子どもを形の鋳型に強制的にはめ込み一体感を持たせる」などです。

 嘘つき教科書が採択されるのも問題ですが、近年、上のような教育がしだいに幅を利かせ始めており、ことによると自分もその片棒を担いでいるのではないかという恐れを感じます。

 子どもたちや学校が荒れるのはよいことではありませんから、何とかして形を整えたいと考えるのは、まちがっていないでしょう。
 ただそれをどうやって子どもたちに理解させるのが適切かという教育論を抜きにした教育になると、「神の国」で行われた「調教」と同じになってしまいます。

 学校やクラスの秩序が、「個」を限りなく尊重しつつ、自然に作られていくのが理想であり、教育は理想に近づくべく行われなければならないと思います。

(ISBN4-00-430764-3 C0221 \740E 2001,12 岩波新書 2005,8,16 読了)