丑木幸男外編『蚕の村の洋行日記』

 明治初年に、イタリアへ蚕種の直接輸出をおこなった群馬県佐位郡島村の人々にまつわる解説書。
 本書の内容としては、多方面にわたりますが、わたししの関心の中心が蚕種輸出の動機や実態にありますので、その点のみノートします。


 日本の開港は1859年でしたが、ヨーロッパの養蚕地帯であったフランス・イタリアで蚕の微粒子病が蔓延したのが1840年。
 開港後、蚕種が日本の主要な輸出品目の一つとなりえた背景に、こうした有利な事情があったということを、日本の養蚕農民が理解していたかは疑わしい。

 しかし、パスツールによって微粒子病の克服法が確立されたのが1867年。
 その方法が一般化された1870年には、ヨーロッパの蚕種製造はほぼ立ち直っていた。
 明治初年の蚕種輸出は、フランス・イタリアと競争する形で行われざるを得ませんでした。

 その競争を、真正面から受けて立とうとしたのが、島村の養蚕農民たちでした。
 対外貿易が売込商を通しておこなわれている限り、蚕種価格は不当に買いたたかれると考えた彼らは、村内で会社組織を作ってイタリアへ乗り込み、直接販売を敢行したのでした。

 まず驚くのは、養蚕県群馬の先進地帯とはいえ、自分たちが生産する商品水準への、彼らの満々たる自信です。
 彼らが最も欲しいのは現金です。
 売込商に売れば、とりあえず最も早く、確実に現金を手にすることができるのです。

 しかし彼らは、自分たちの蚕種の価値たるや、売込商の言い値よりはるかに上だと考えていますから、言葉の通じぬイタリアで直接販売すれば、より望ましい価格で販売することができると確信していたのでした。

 資本主義経済草創期のフロンティアたちの、こうした軒昂たる意気高さには感動させられます。
 しかし、当初ある程度の利益をあげることに成功したイタリア直販方式は、微粒子病克服によってヨーロッパ蚕種が復活するにつれ、期待した利益をあげることができなくなり、売込商への販売を求める零細農民と村落リーダーとの対立の結果、島村勧業会社は解体していったのでした。

 近年、資本主義経済とは、そもそも自然や社会との調和とは敵対的な経済のあり方なのではないかという気がするのですが、もの作りにかける人間の情熱や努力などは、人間存在の根幹的な営為だと思われます。

 このあたりをもっときちんと整理してみたいと思います。

(ISBN4-582-36425-X C0391 \2000E 1995,7 平凡社 2005,3,25 読了)