蔵治光一郎外編『緑のダム』

 緑のダムとは、森林土壌が持っている貯水機能に着目して、森林がコンクリートダムのように治水と利水の両方の機能を果たしうるのではないかという考え方です。

 森林の機能は総合的であるがゆえに、この点についても総合的に考える視点が必要なのではないかと思います。

 というのは、森林がコンクリートダムに匹敵する治水・利水機能を持っているわけでないのは、学説上明らかであるわけですが、治水の観点からのみ論じたのでは、森林の果たす総合的な役割が見えなくなってしまうからです。

 治水に関しては、二つのことを総合的に考えるべきだと思っています。
 一つは、豪雨時に流出する大量の水を洪水化させずに、どうやって流下させるかいう問題。
 この問題に対する答えが、コンクリートダムであり、また「緑のダム」であるわけです。

 もう一つは、洪水時にどのようにして人命を守るかという問題。
 洪水を起こさせないということと、人命を守ることとは、必ずしも同じ問題ではありません。

 1999年に、豪雨の神奈川県玄倉川で、中洲でキャンプをしていたキャンパー数名が濁流に呑まれて死亡した事件がありました。
 この事故の責任はキャンパーの側にありましたが、直前に玄倉ダムが放水を開始したことが、無謀な観光客が流された原因でもありました。
 ダムに対し警察から、放水を止める要請はなされたのですが、「ダムが決壊して 大惨事につながるおそれ」(こちら参照)という理由で放水は続行され、惨事に至ったのでした。

 日本では、地理的自然環境と国土の特徴からして、豪雨による一気の出水は、不可避です。
 一気の出水が不可避である以上、洪水を起こさせないことも、不可能なのです。

 コンクリートダムによって水を封じ込めることは、一定有効な洪水防止策です。
 しかし、ダムによる治水効果は、しょせん限定的な役割しか果たせない上、万一ダムが決壊すれば、人命に対しても壊滅的な被害をもたらすおそれが多々あります。

 「緑のダム」もまた、限定的な治水効果しか果たせないことが、明らかになっています。
 従って日本では、洪水防止は不可能だという現実を、議論の出発点に持ってこなければならないのです。

 科学の進歩したこの時代に、洪水防止くらいのことができないはずはないという意見があるかもしれませんが、わたしはむしろ、人間にできることとできないことがあるという考えの方が大切ではないかと思います。

 洪水は、防ぐべきものというより、逃げるべきものではないのかと思います。
 江戸幕府は、深山の樹木の伐採を禁じたり、河川に家を建てたり田畑を作ることを禁じてきました。
 これが、経験から生みだされた豪雨とのつきあい方です。
 この政策を立案した幕僚は、よほどの地方巧者(ぢかたこうしゃ)だったのでしょう。

 洪水が防げないものであるならば、次なる課題は、いかにして人命の損失を防ぐか、またいかにして財産の損耗を防ぐかということであり、損耗した市民の財産への保障措置はいかにあるべきか、といった問題でなければなりません。

 日本は、洪水とともに生きねばならない国なのに、これらのことが真剣に考えられているとは言えません。
 現在の課題の一つは、ここにあります。

 「緑のダム」は、限定的ではあれ、治水・利水効果が証明されつつあるように見えます。
 コンクリートダムと「緑のダム」のいずれが優れているかといった問題の立て方は、あまり意味がないように思えます。

 コンクリートダムは、いかに「多目的」ダムを装おっても本質的には、一定の治水効果以上の役割を果たすものではないと思われます。
 それに対し、「緑のダム」は、動物・植物・菌類など生態系のすべてと、人間にとっても有用な遺伝子資源・観光資源を保全することができるという意味でも、対費用効果の点から見ても、総合的に見るならば、これにまさる治水策はあり得ないのではないでしょうか。

 本書は、「緑のダム」の治水効果がどのようなものなのかについての、水文学的な論文が多いので、われわれ一般人にとってあまり読みやすいとは言えません。
 また、治水効果の計算方法について、相対立する見解が並列されており、とまどう部分もあります。

 しかし、「緑のダム」を経験あるいは印象だけでなく、科学として語る上で、このような議論も必要なのだということがわかりました。

(ISBN4-8067-1300-7 C0040 \2600E 2004,12 築地書館 2005,3,3 読了)