永原慶二『富士山宝永大爆発』

 1704年初冬に起きた富士山の噴火による被害を、幕府や小田原藩がどのように救済・復旧しようとしてきたかをあとづけた本。


 火山の噴火は、人の力ではいかんともしがたい天災ですが、被害をいかに小さくできるかは、政治にかかっています。

 宝永噴火は、溶岩流こそ流さなかったものの、莫大な量の火山弾・噴砂・火山灰を噴出し、山の東側一帯を埋め尽くしたとのことです。
 この噴火による最大の災害は、噴砂による田畑の埋没という事態でした。

 当年の麦作は絶望だったにせよ、その後いかにして降砂を排除して田畑を復旧するかという問題、そして降砂の流入により川床が上がり危険性を増した酒匂川治水により、洪水という二次被害をいかに防止するかという問題などが、行政の課題でした。

 奥山の徹底的な保護や中・下流域における氾濫原の確保などに示される江戸幕府の治山・治水政策は、今の日本政府のそれと比べて、基本に忠実で、より長期的展望に立ったものであると思っています。

 しかし、18世紀初めの段階では、噴火という事態に対応できる土木理論や技術は、未確立だったとみえます。

 天災に対しては、機動的に、どれだけ長期的展望に立った対応をとれるかが、成否を分けるようです。
 もっともまずいのが、その場を糊塗するだけの弥縫策ですが、当時の小田原藩や公儀がとったのは、まさにそのような対応でした。

 降砂被害を受けた村々に対する当面の課題は、生産力の回復であったはず。
 そのためには、計画的な排砂事業を実施するほかなかったわけですが、勘定方の腐敗などにより財政難だった幕府はそのための財政支出を渋り、田畑の復旧は結果的に大幅に遅れざるを得ませんでした。

 さらに降砂の流入を遠因とする酒匂川の氾濫対策も、江戸商人に請け負わせる形をとったために杜撰な工事に終わり、なんの効果もあげ得なかったばかりか、河道の変更により村々の間に新たな対立を生じてしまうなどの問題を発生させています。

 江戸時代中期の富士山噴火一件は、現代の天災対策に通じる多くの教訓を含んでいます。
 日本列島は、自然的なりたちから言って、地震・洪水・噴火などの天災を受けやすい環境にあります。
 目先の経済的利益を追う現在の土木行政のレベルは、かつて公儀が示した対策の水準にさえ及ばないでしょう。

 天災の予知とか、人命保護のための手だてとか、二次被害の防止などに、もっと力を注ぐべきではないかと思うのですが。

(ISBN4-08-720126-0 C0221 \740E 2003,3 集英社新書 2004,9,9読了)