暉峻淑子『豊かさの条件』

 前著『豊かさとは何か』(岩波新書)の続編。 1990年代後半以降進行しつつあるリストラ・過重労働などのグローバル化という、現代日本の非人間的状況を克服する方向を模索した本です。

 日本が今、向かいつつあるのは、利潤至上主義によって人間が使い捨てられるような社会です。
 この流れを止めるべきだというのは当然として、それではどういう社会を実現すべきなのか。

 前回の読書ノートで「資本主義のあるべき姿についてさらに深く省察する必要があるのではないか」と書きましたが、この本では、ドイツの教育や著者自身がNGO活動の一環として取り組んでこられた体験から、社会のあるべき姿について省察されています。

 教育の目的さえ見失ったかに見える日本とちがい、ドイツでは相変わらず、教育とは個人の完成であるという教育が行われており、そのことによって「学力」が崩壊するという状況には至っていません。
 教育が崩壊しているのはむしろ、日本が追従しようとしているアメリカのようです。

 日本政府が教育を崩壊させようとしているというのは、わたしの推測ではなく、ホントの話です。
 教育課程審議会(日本の教育内容を示した「学習指導要領」づくりを方向づける役割を果たす)の会長が「これからはかけ算の九九を言えなくて中学を卒業する子も出るだろう」と述べています。(ソースはこちら)

 すなわち日本の子どもの学力を下げるんだということがちゃんと言われているのです。
 解説するなら小・中・高校のカリキュラム編成のリーダーであった三浦氏が、100人に1人のエリートをきっちり育てるためには、多くの子どもたちの学力が下がって当然と言ってるわけです。

 現場にいる者としては、何ともモチベーションの下がる話です。

 一方、今後の社会のあり方に関しては、貴重なヒントがいくつも提示されています。
 本書に示されたキーワードは、「助け合い」です。

 グローバル化のもとでの「自助努力」は、共助機構の一環である行政がその任務を放棄する言い訳として語られている言葉です。
 ここで言われている「助け合い」とは、人間社会が本来持っている性質であると著者は言っておられ、破壊の歴史でもあった人類史は、表面はあらわれない共助の歴史でもあったと指摘されています。

 著者が自らの体験として紹介されている、ユーゴスラビアの子どもたちとの交流実践やボランティアによる国際支援活動をみると、そのような「助け合い」には可能性があると思えます。
 しかし、前述したように、いわば制度化された「助け合い」(そのための費用負担としてわれわれは納税する)である行政が「口利き政治」や官僚機構維持のために利権化し、「民営化」によって利潤を目的とする「競争原理」に投げ込まれつつあるのが現実なのであり、日本がドイツのように「個」に基づく国づくりを行っていくのは、絶望的に困難であろうと思います。

 当サイトのDIARYで数回にわたって「イラク人質事件」についてふれました。
 拘束されたのはイラクのストリートチルドレン救援に従事している人や劣化ウラン弾による健康被害について調査しようとした人、そして大手マスコミが米軍情報を無批判に垂れ流している中で、イラク戦争の真実を伝えようとしたジャーナリストであり、彼らがイラクに赴いたのは人間として当然の行動でした。

 彼らの行動の意味を理解した政治家が、アメリカ国務長官のパウエル氏以外にいなかったというのはたいへん皮肉です。
 彼らの救出に奔走し、実際の効果をもたらしたのはNGOやアルジャジーラテレビであり、日本政府の対応は結果的に事態をよけい複雑化しただけだったのに、日本の政治家やマスコミは、人質バッシングを合唱していたのでした。

 ちなみに日本政府は被拘束者に帰りの航空運賃を請求した(asahi com)とのことですが、彼らは、自分たちで入手してあったチケットをキャンセルさせられて政府の指定した便に乗せられたということです。(『週刊金曜日』)

 日本(人)は、他者への共感能力どころか、世界で起きつつあることを理解しようとする理解・感性さえ摩耗させてしまいつつあるのではないかと思います。
 ちょっと救いようもないのですが、そうした流れに竿が差せるような仕事をしていければと思います。

(ISBN4-00-430836-4 C0236 \740E 2003,5 岩波書店刊 2004,6,18読了)