根深誠『シェルパ』

 第二次世界大戦前以来、ヒマラヤ登山を支えてきたシェルパとは、どのような人々なのかを描いたルポ。


 サブタイトルに「ヒマラヤの栄光と死」とあります。

 シェルパとはネパール北東部に住んでいた少数民族で、高所に強い肉体を持っていたために、ヨーロッパ人などのヒマラヤ登山者をサポートする役割を果たしてきました。
 ヒマラヤへの本格的な挑戦が開始された1920年代から8000メートル峰が続々と登られた1950年代を経て1970年代あたりにかけての登山記には、多くのシェルパが登場します。

 (カラコルムを含む)ヒマラヤ登山記が、もっとも躍動的で魅力的で感動的なのは、未踏峰の多かったこの時期のものです。
 シェルパなしでの登山はあり得なかったのですから、登山記にでてくるシェルパの存在感は、ずいぶん大きなものがあります。

 莫大な費用をかけ、最新の登山用具を駆使して巨峰を「征服」することが、国家の威信を発揚すると同時に登山者個人にとってこの上ない名誉となった時代です。
 登山記を読んでいて、どうにも鼻持ちならないのは、登山者個人の名誉欲が露骨に出て来たりする場面です。

 そうした登山記の中でシェルパは、どのような扱いを受けてきたか。
 それは、登山の中でシェルパがどのような立場に置かれてきたかを示すものです。

 著者は、登山記の中のシェルパに関する記述をふんだんに引用し、その実態を示してくれます。
 それを見ると、ヒマラヤ開拓期のシェルパは、対等の登山パートナーなどではあり得ないし、契約された仕事(荷揚げなど)を淡々とこなす単なる高所ポーターでもありません。
 彼らに期待されていたのは、登山者の従僕として、命をかけて登山者の登山行為に奉仕することだったのです。

 「主人」である登山者を救うために死んだシェルパは、「忠誠心」「献身」「無私の精神」などと持ち上げられ、美談の主とされました。
 しかし、山における遭難とは、程度の差はあれ、自分たちの力と山の困難さの関係を読みまちがえるところから起きるものなのではないかと思います。

 この本のほとんどの部分は、当時一線で活躍していた老シェルパからの聞き書きによって構成されています。
 彼らの言葉は控えめですが、当時のシェルパたちが何も好きこのんで高峰に向かったのではなく、お金のためにやむなく命がけの「出稼ぎ」の一つとしてヒマラヤ登山に従事していたことがわかります。

 ほとんどヒマラヤ登山記は、成功に至る苦難の数々をことこまかに美しく描き出す一方で、登山を支えたシェルパの現実については、無意味な美談以外にほとんど書いてこなかったのです。

 遭難によって死んだシェルパの家族はどうなったのか。
 凍傷などは、誰の費用でどのように治療され、後遺症への補償はどうなったのか。

 ヒマラヤ登山はこれまでに、大量のゴミ以外に、何を残してきたのか。
 ヒマラヤはいまでは、西洋人ガイドたちがお金をかせぐ場になっているようです。
 そんなことでいいのか、考えさせられます。
 日本の山歩き・沢登りといった登山行為も、意味ある何を残すのかが問われているのではないかと思いました。

 本書のような本がなぜ、今まで書かれなかったのか、疑問です。

(ISBN4-12-204037-X C1195 P819E 2002,6 中公文庫 2004,4,2読了)