島本慈子『ルポ解雇』

 昨年6月、解雇に関するルールを含め、労働基準法が改正されたそうです。
 イラクや北朝鮮の情勢や、それに対する日本政府の対応などに目がいっていましたが、国会では密かに、日本人の生き方に関わる大きな制度改革を始めていたようです。

 「日本人の生き方に関わる」というのは、一人一人の人間にとって、働くことは生きることの意味におけるかなり大きな部分を占めているからです。
 マルクスの言う「疎外された労働」が資本主義社会における労働の本質であるとしても、それが人間的自然の本来あるべき姿でないことは誰の目にも明らかですから、資本主義社会においても、労働の人間化は常に、社会的なテーマであり続けてきました。

 戦前の日本は、国内労働を植民地同様低位な状態におくことで欧米との競争に伍し、大陸への侵略を可能にしていましたから、いわゆる戦後「民主化」の過程で、労働者の基本的権利を保護し、労働条件の劣化に枠を設ける改革がおこなわれてきました。

 戦後の日本では、社会状況の変化に関わらず、労働基本権を擁護する方向で、労働行政がおこなわれてきました。
 職場における人権無視やサービス残業や公務員のスト権否定など、未解決の多くの問題を残しながらも、憲法及び労働基準法を基本とするという点では一貫していたのではないかと思います。

 この本を読んで、変化の兆しは、1980年前後から始まったのだとわかりました。
 この前後には、M・サッチャーのイギリス首相就任(1979)、R・レーガンのアメリカ大統領就任(1981)という、世界的な動きがありました。
 この動きは単なる保守化(とわたしなんかは思っていたのですが)ではなく、競争至上主義への構造的な変化であったのです。

 競争至上主義は人間的自然に反する(生態学的にみると人間という生物にとってそれが滅びの道であるから)とわたしは思っていますが、反論もあるでしょう。
 ただ考えがまだ熟していないので、このことについては、後日もっと考えたいと思います。

 「繁栄」は、社会にとって目標となりうる価値のように見えます。
 しかし、例えばアメリカの「繁栄」は、何をもたらしたか。
 アメリカ国内では、持てるものと持たざるものとの大きな格差がもたらされ、富裕階級に従わぬものや価値観を異にするものは、排斥されています。

 またアメリカは、市場拡大のため、あらゆる圧力によって他国を脅迫し、自国に従わぬ国に対しては手段を選ばぬ手法で言うことを聞かせようとします。
 現在のアメリカにとって、協調あるいは共生による「繁栄」など、甚だしいナンセンスでしょう。
 なぜなら、アメリカ的「繁栄」とは必ず、敗者の犠牲の上に築かれるものだから。

 小泉内閣は、こうした社会を実現しようとしています。
 小泉内閣メールマガジンでも、「小泉内閣の誕生は、1979年英国でのサッチャー首相出現と酷似した政治ドラマだ」と自画自賛しているくらいですから。

 この本を読んでみると、今後日本も労働力の「流動化」の方向に向かっていく(もちろんすでに相当部分でそれは実現していますが)ことがわかります。
 労働力の流動化とは契約社員や請負社員などを主力とする雇用のあり方であり、要するに、原則解雇自由な状態への移行です。

 プライドを持って働いている人間にとって、自分が解雇の対象になるなど、考えられもしないことでありますが、解雇理由はいかようにでもつけられるし、異議申し立てをしても司法は多く行政に追随しますから、裁判は苦しくきびしい闘いになるでしょう。

 どのような犠牲をうみだしてでも、「繁栄」の実現は必要なのでしょうか。
 職場の現実を見ていると、競争至上主義の総本山であるアメリカで、「仕事をどれほどうまくこなしてきたかではなく、社内政治での立ち回りがどれほどうまかったかが大切です」(本書より)という結果が出ているというのは、さもありなんと思ってしまいます。

 労働者が人間であるという事実が変えられない以上、競争至上主義は人間的自然に反するし、社会そのものにきしみを生じる原因となり、やがては衰退に通じる考えだとわたしは思います。

(ISBN4-00-430859-3 C0236 \700E 2003,10 岩波新書 2004,2,19 読了)