松下竜一『豆腐屋の四季』

 わたしは、1960年代はちょうど少年期を過ごしました。
 私にとっての世界は、せいぜい半径数百メートルの範囲内でしたが、今から思えばずいぶん輪郭のはっきりした世界だったと思います。

 「輪郭のはっきりした」とは、そこに住む生きものや人間がよく見えていたということです。

 しかし、その世界はずいぶん急速に変化していきました。
 畑や田んぼや野原は、更地になり、そして住宅や店や工場に変わっていきました。
 店や工場にはもちろん、栄枯盛衰がありますから、その後も変わっていきましたが、住宅もずいぶん速いスピードで建て変わっていったような気がします。

 狭い世界のなかで古いものがスクラップされ、新しいものが構築される。
 しかしそれとて、せいぜい20年程度のサイクルで再びスクラップされていく。
 こんなことをしながら、人は生きてきたのでしょう。
 近年の人間にとって、つくったり、こわしたりすることが、「経済」だったのです。

 この本を読んで、あの時代に、ものは愛(いと)しみつくらねばならないという信念を持って働いていた人がいたのだと、感慨がありました。
 使い捨てられるものは、ゴミになるものです。
 それでは、使い捨てられるものをつくるのは、ゴミをつくることではないのでしょうか。

 ゴミをつくっても、お金が手元に残るならそれでよいという考えは、まっとうではないと思います。
 ひとに喜ばれ、ひとに愛おしまれながら使われる(食べられる)ものをつくるのが、人間のものづくりであるべきではないでしょうか。

 どこの誰が日本人に教えたのか知りませんが、もうかるかもうからないかですべてを判断しようとするような発想は、捨てた方がよい。
 経済成長なんぞは、しなくてもよい。
 必要なものがやや不足するくらいの暮らしに、やや不満をこぼしながら日々を暮らすのが、理想ではないかと思います。

 たしかに、1960年代には、ここに描かれているような世界があったような気がします。
 こんな世界を忘れていったところに、今の、どうしようもない日本があるんだと思います。

(ISBN4-06-183058-9 C0195 \552E 1983,6 講談社文庫 2003,8,5 読了)