ひろたまさき『近代日本を語る』

 サブタイトルに、「福沢諭吉と民衆と差別」とある、講演集。
 著者の福沢論に接したのは、ずいぶん以前(1970年代後半)に、「朝日評伝選」に入っていた『福沢諭吉』を読んで以来です。

 遠山茂樹氏の『福沢諭吉』(東大出版会)とともに、近代日本を代表する論客の光と陰がわかりやすく学べる、いい本でした。

 こちらは、福沢論だけでなく、非差別部落論や従軍慰安婦問題などにも論及されています。

 これらの講演に一貫しているのは、近代というものが、非人間的なさまざまな問題を生みだしているという論点です。

 たとえば、清潔さという観念は、まさに近代的な観念ですが、この社会においては、だれからも正当と価値づけられる観念だと思います。
 しかし、そうであるが故に、清潔でないということが、蔑視の理由となってしまう。

 文明社会の価値観が、新たな差別を生み出しているのであり、近代日本の課題であった部落問題も、封建遺制の一種というより、近代日本固有の問題なのだと、著者は述べています。

 わたしが深刻に受け止めたのは、近代社会を支えるシステムや規範が差別を生み出しているという指摘です。
 著者もいうように、学校とは、そのようなシステムや規範へと人間を順応させる役割を果たす場です。

 そうではない、学校は、教育基本法がいうように、個性を形成する場である(べきである)と主張する向きもあるでしょう。
 しかし、現実に、多くの学校は、社会の現実を知らしめ、現実に順応させることを目的として、機能しています。

 著者は、それを当然のこととするような教師の感性の変革を求め、差別を生み出すシステムや規範のあり方に立ち向かう姿勢を求めています。

 近代によってもたらされた規範とは、どのような構造を持っていたのか。
 近代によってもたらされたものの中の、なにが差別を生み出したのか。
 単純ではないにせよ、それをもっときちんととらえてみたい気持ちになります。

(ISBN4-642-07776-6 C1021 \1800E 2001,8刊 吉川弘文館 2002,9,12 読了)