干刈あがた『黄色い髪』

 どうしようもない自縄自縛に陥っている学校現場の現実と、そんな現実の中で、懸命に自分のアイデンティティを求めて苦闘する母子の内面を描いた小説。

 人間は育てられるものであって、作られるものではありません。
 こういう人間を育てたいという理想はあっていいかもしれませんが、育つのはあくまでもその人自身であって、教育は、その人の人間的自然に即した育ちを支え、伸ばすものでなければ、ゆがみを生じます。

 子どもに備わる人間的自然は、きわめて強固かつ健全なものであって、人為による歪曲にもよく耐え、みごとな成長を遂げるしなやかさを持っています。
 しかし、おとなたちの個々の利害や思惑によって翻弄され、自分らしい成長を妨げられる現実に絶望したとき、子どもとて、くじけてしまうことがあるのです。

 今の学校の自縄自縛状況の一つは、価値観を強要する点です。

 たとえば、自分にとって、どのような服を着るのがいいのか、どのような髪型がいいのか。
 思春期という、自分のアイデンティティを形成すべき大事な時期に、アイデンティティの基本である自分の姿について考えることは、多くの学校で、許されていません。
 アイデンティティの基本といいましたが、こんな基本的で単純なことさえ、考えることが許されないのです。

 スカートの長さや、靴下の色や、ごくごく微妙な髪の色に至るまで、あらかじめ決められた(とはいえ誰かが主観的に決めたにすぎないのですが)決まりに、自分を合わせなくてはならない現実。
 決まりに従わない人が迫害され、やがて排除さえされていく現実。

 決まりの存在が、子どもたちを育ちそこねさせているといっているのでは、ないのです。
 なに故、人間的自然にとってはどうでもよいことにすぎないそれらの決まりによって、子どもたちのアイデンティティが、頭から否定されねばならないのかといいたいのです。
 試行錯誤する子どもたちに、人間的なアドバイスを与えながら、あたたかく見守ってあげれば、よいだけのことではありませんか。

 今の社会は、子どもたちに、至高の価値として、従順さを求めています。
 おとなたちの作った、この、どうしようもない社会に、異議申し立てをされては、とりあえず自分たちが困るからでしょう。
 どうしようもない社会、とは、人間的自然に反する醜悪な価値観の支配する社会という意味です。

 とりあえず黙らせておいて、あとでその人たちにつけを回すなどということは、わたしにはできません。
 従順さの対極にあるのは、反抗ではなく、自らの人間的自然に目覚めた、自覚的な人間でしょう。

 親は、子の敵になってはいけません。
 そして、教師も。

(ISBN4-02-260568-5 C0193 \600E 1989,9 朝日文庫 2002,7,31 読了)