鎌田慧『津軽・斜陽の家』

 太宰治の生家である津島家の近代とは、どのようなものだったのかを明らかにした本。

 豪邸・「斜陽館」に象徴される寄生地主の近代をあとづけながら、精神の一人歩きを始めた感受性が、その現実をどう受け止めてきたかを、考察しています。

 風土からのみ作品を分析したのでは、つまらないかもしれませんが、風土との関係ぬきに、作品を論じても、意味がない(しょせん印象批評の域を出ない)ように思います。
 太宰論をいくつか読みましたが、(賛否にかかわらず)多くはとても観念的で、今ひとつ、作家の実像に迫れていないと思っていました。

 このように言うと、身も蓋もない気がしますが、日本の近代と同様に、大地主・津島家の経済力も、根が浅かったのですね。
 この本によれば、津島家は、明治初年には、質流れ品の売買や金貸しを営みつつ、商品経済の浮き波を泳いでいた小地主にすぎませんでした。

 それが、明治末年に、県下屈指の大地主に成長した背景にあるのは、たとえば秩父困民党の農民たちが養蚕・製糸技術革新にエネルギーをそそぎ込んだような、起業努力や情熱といったものではなくて、高利貸資本として、零細な農民から土地を収奪した結果であったようです。

 資本主義発達の原動力は、いうまでもなく、産業資本です。
 産業資本を支えていたのは、技術力です。
 技術力の浅さを挽回するための、懸命の努力が、日本の産業革命の底流にあったはずです。

 しかし、産業資本の多くは、技術力や資金力の弱さゆえに、敗退し、歴史の舞台から退いていきました。
 秩父地方でいえば、薄製糸社のごとく。

 しかし、産業資本形成期における、群小資本のこのような敗北は、経済史の上では決して無意味ではなく、彼らの試行錯誤は、資本主義経済発達の、貴重な肥やしになったはずです。

 ところが、明治日本の経済を支配したのは、主として、特権資本と金融資本でした。
 秩父地方なら、永宝社やそれに連なる商人たちが、思い浮かびます。
 ここが、日本の経済力の根の浅さでした。

 根が浅いのに、枝葉を繁らせすぎた大木。
 太宰が羞恥したのは、枝葉を繁らせることに腐心する一方で、しっかりした根を張ることをおろそかにしていた近代日本の姿であったのだなぁ、と思いました。

 しっかりした根とは、風土に根ざした暮らしです。
 太宰は、生活を怖れていたといわれますが、大地主の息子にとって、それはやむを得ないこと。
 土や手わざに生きつつ、静かな自己省察をも怠らない人生が、あるべき近代人の姿なのでしょう。

 宮沢賢治と太宰は、案外、近くにいた人なのかもしれません。

(ISBN4-396-63172-3 C0093 \1700E 2000,6 祥伝社刊 2002,3,13 読了)