伊藤正一『黒部の山賊』

 日本アルプスに行かない、そして山小屋にはほとんど泊まらない私ですが、アルプスに関心がないわけではないので、ときどきに目についた本をめくってみたりしています。

 この本は、1964年に出たものの新版(実際には再版)です。
 著者は、林野庁の山小屋撤去命令と闘っておられる、北アルプス数ヶ所の山小屋経営者です。

 "黒部の山賊"とは、戦後の一時期、北アルプスの要所、三俣山荘を根城に黒部源流で暮らしていた4人の人物のことです。
 この4人のことを著者は"山賊"と呼んでいるわけですが、その実態は、北アルプスの黎明期に活躍した著名な猟師たちの次の世代に属する人びとだったようです。
 昭和時代ともなると、気ままに山でクマやカモシカをとって暮らすということはできなくなりました。カモシカは天然記念物になってしまいます。
 しかし、これらの人びとは、名猟師といわれた親たち同様、狩りや釣りによって暮らしていこうとしました。山には、登山者がやってくるようになりました。

 著者は、山賊のうわさを聞いて、自分の所有する三俣小屋に泊まったところ、山賊から宿泊料を取られてしまいます。
 この人たちは、やっぱり"山賊"だったのでしょう。それも、日本最後の。
 彼らと著者はやがて、小屋の持ち主と雇用者という関係で、共同生活をするようになります。山賊たちの足の速さ、目のよさ、イワナ釣りの技術(テンカラだったようです)、狩猟技術などは、名猟師に遜色はないようです。

 この本の内容は、山賊たちとの思い出ばかりではありません。
 黒部源流に遊んだ登山者たちや、小屋の建設にまつわる、いろいろなエピソードも綴られています。
 ハイカーとしては、遭難の話は思わず真剣に読んでしまうものです。
 そこでつくづく感じるのは、山小屋というものの大切さです。
 いままで、登山者はだれから山の自然を学んできたでしょうか。
 いまでこそ、国立公園にはネイチャーセンターのような施設が作られ、大人や子どもが、いちおう学習できるようになっています。
 しかし、登山が大衆化して以来、山小屋で働く人びとが登山者を啓蒙するうえで果たしてきた役割は、決定的だったでしょう。
 さらに、きびしい三千メートルの稜線で、山小屋なしに、一般の登山者が数日を過ごすなど、ぜったいに不可能です。山小屋のおかげで命を救われた登山者だって、大変な数にのぼるはずです。

 この本では、4つの山小屋撤去命令を出した林野庁と著者との裁判のことについては、ほとんど触れられていません。
 しかし、この本をざっと読んだだけでも、小屋の持つ役割の大切さがわかります。
 山を金もうけの手段にしようとする林野庁と、山と登山者を守ろうとする山人との闘いに、私もとても関心があります。

 林野庁がはいりこんでくる前に、山は猟師たちによって守られていたし、山賊たちだって、決して山を破壊したりはしなかった。山賊たちは、山をとても愛していたのだということを、著者は言いたいのだと思いました。

(ISBN4-408-61007-0 C0095 P1200E 1994,8 実業之日本社刊 1996,12 読了)