高木仁三郎『鳥たちの舞うとき』

 すきとおった青空のように、美しい小説。

 総理大臣を輩出したという「G県」の、新潟県境に近い「天楽谷」に計画された揚水ダムに、住民と鳥たちが共同して反対するという物語になっています。
 法を鉾や楯として、国家と住民が争闘を繰り広げるさまを描いた、『砦に拠る』とは、まったく対照的です。

 ダムに反対することが、人間と自然を守ることであるのは、いつの時代にも変わらぬ真理ですが、闘いの論理は、高度成長期と現代とでは、ずいぶん様相がちがってきています。

 ダム建設によって失われるのは、長く続いてきた山村の村落共同体や、それを維持するための物質的・精神的文化(これが日本文化の重要な構成部分となっていた)や、治水・利水のための水源林です。

 そういう意味でダム建設は、人間の暮らしにとって、百害あって一利なく、地域や自然だけでなく、理と法と情を破壊して、人間関係と人間の精神をも荒廃させる、戦争にも等しい愚挙であるということが、20世紀後半の試行錯誤によって、はっきりしてきました。

 しかしそこにはなお、生き物にとってダム建設が、どういう意味を持っているか、という視点はなかったように思います。
 たとえば、森林の水源涵養機能という視点は存在しましたが、それはあくまでも、人間にとってどれだけ有用な自然かという問題なのです。

 ここ数年、日本における環境保護の問題をざっと見ていると、結局、自然環境というものは、経済効果という形で数値化することは不可能だと思わざるを得ません。
 数字の話になると、曲学阿世の学者や役人が、いかようにも粉飾した、もっともらしい数字を並べてみせるのです。

 生き物の生息環境を大きく改変し、在来の生き物の生息を危うくさせることが、宇宙の真理にとって、いかなる意味を持つのか、という議論をすべきです。

 20世紀の末に、日本でも、生き物を原告とした環境訴訟が提起されてきました。
 それらの訴訟の詳細については、よく存じませんが、被破壊者が破壊者と対峙する機会を保障しなければ、公平とは言えず、したがってことの本質に迫り得ないことは、まちがいありません。

 人と鳥とが、共にコンサートを作り上げることによって、ダム反対をアピールするという小説のフィナーレが、強烈な印象を残しました。
 現代における、賢治の童話を読む思いでした。

(ISBN4-87502-338-3 C0036 \1600E 2000,11 工作舎刊 2001,12,14 読了)