内山節『里の在処』

 群馬県上野村は、埼玉県大滝村と県境を接し、広大な面積をもつ山村です。
 平坦地は少なく、陽当たりのよい山ひだに、集落が点在しています。


 大滝村よりは、平坦なところも多いし、人家も多い印象があります。

 秩父事件の舞台になった村でもあります。
 困民党軍は、秩父から峠を越え、現在の中里村から神流川沿いを遡って現在の上野村に入り、参加動員をかけながら高利貸を襲撃し、白井の宿で一泊した後、十石峠を越えて、佐久に抜けたのでした。

 わたしの見たところ、秩父事件にはあまり積極的に参加したのではなく、動員によって受動的に参加した人が多いようです。
 参加者も、村内では比較的平坦なところに住んでいる人が多いと思います。

 ある日の夕方、神流川の本流を釣り遡っていくと、浜平で、毛鉤で淵を叩いている釣り人に会いました。
 どこから見ても、地元の人でした。

 わたしは、先客に出会ったときの仁義にしたがって、竿を納め、「どうですか」と声をかけると、「おれはここでしか釣らないから先を釣ってもらってもいいんだけど、すぐ先で立入禁止になっちゃうんだよ」と言われました。
 それは、ダム工事による立入禁止だったのです。

 上野村にも、ダムができるのです。
 堰体は、浜平上流の神流川本流にできるので、水没する人家はないのかも知れません。
 聞くところによると、このダムは、揚水ダムだそうな。

 揚水ダムは、原発の余り電気の捨て場になるのだそうです。
 新潟県に林立する原発の余り電気を、神流川に捨てるとか、日本海に流れるべき水を太平洋に流れるべき水系に湛水するとか、あまりにも自然を無視した計画だと思います。

 しかしとにかく、建設は進んでいます。
 楢原から浜平まで、かつては川に沿ってくねくねと曲がっていた道路は、橋とトンネルによって、まっすぐになりました。
 そのかわり、川は土砂や石で埋まりました。
 川を埋めた石が、岩盤を発破で砕いたものであるせいか、釣り人の気持ちもとがっているようです。

 この本は、著者がここに家を買い、一年のうち数ヶ月を暮らすようになって、「里」についてどのように考えるようになったかを記したものです。
 とてもこころ温まる、村の日々が描かれています。

 印象批評めいて恐縮ですが、はじめの方に書かれている、「里」についての著者の論は、まだ十分に発酵しきっていないように感じました。
「自己を主張することの虚しさ」
「論理性の超越」
「知性がつくりだした世界には、根源的なものが欠落している」
等々。

 山村の暮らしの中にも、自己主張や論理性や知性があってよいし、またなくてはならないのではないかと思います。
 生態系や地球環境といったものに盲目化した現代人の現状は、知性がつくりだしたのではなく、知性の欠如によってつくりだされたのではないかと、わたしは思います。

 近代の知性が、経済価値を価値観の根本基準に据えたところに、陥穽があったという点を、見なくてはなりますまい。
 そこに欠落していたのは、著者の言うように、「永遠」という価値でした。
 されば、哲学の課題は、「永遠」を価値観の機軸とする知性の創出ではないでしょうか。

 いまの「里」を批判的に見る目も、やはり知性によってとぎすまされねばならないでしょう。
 ダムができ、大量のヤマメが放流される村の現実を、そのまま受け入れる気持ちにはなれません。
 著者は、このことについて、どうお考えなのでしょうね。

(ISBN4-10-387802-9 C0095 \1400E 2001,5 新潮社刊 2001,12,1 読了)