賢治・嘉内の碑前祭
午前中は雨降り。
絵に描いたような秋雨前線である。
鎮守の秋祭りの集まりがあった。
午後は、宮沢賢治・保阪嘉内の碑前祭という催しに出かけてきた。
碑前祭の碑とは、こちらである。
賢治が盛岡高等農林における小鹿野への見学旅行に訪れたのは1916年、嘉内は1917年である。
嘉内の足跡はきっちりわかっていないようだが、賢治は、当時国神が終点だった秩父鉄道で来秩し、小鹿野町寿旅館に宿泊して、下小鹿野の"ようばけ"や三山地区皆本沢の中生代地層を見学し、三峯神社に登って泊まり、皆野の角屋旅館(秩父困民党の本陣としても使われた)に泊まって長瀞の岩畳を見学したらしい。
この催しを機に、賢治と嘉内に関する研究がさらに進むことを期待したい。
催しの中で、いろんな人からこもごも話があった。
賢治だけがクローズアップされるのではなく、賢治と嘉内の"友情"に焦点が当たるのはよいと思うのだが、二人の"友情"とは何だったのかについては、今ひとつ分析されていないような気がする。
この点について、もっとも深く迫っているのは『宮沢賢治の青春』や『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』だと思うが、これらの本も、自分としては今ひとつ感がある。
わたしの分析は以下のとおりである。
盛岡高農の寮でのルームメイトである二人は、現実社会のさまざまな矛盾について語り合い、この解決方法を語り合った。
同人誌『アザレア』は、彼らの思想的模索を表現する場であった。
しかし嘉内は、その思索と表現を理由に学校を逐われ、二人のつながりは引き裂かれた。
じつは、賢治と嘉内の思想的方向性は、かなり異なっていた。
賢治が、現実の問題を法華経という理念を普及することによって解決しようとしていたのに対し、嘉内はそれに懐疑的で、農村の改革という実践によるしか、問題は解決しないと考えていた。
二人に共通していたのは、疲弊した農村や不幸な"農民"たちの現実に対する。強烈な問題意識だった。
彼らはおそらく、夜も昼も、この問題とその解決策について語り合っていただろう。
嘉内の放校処分によって二人の関係は断ち切られてしまったが、社会に出た二人の前に、昭和恐慌という最悪の現実が待っていた。
賢治は花巻農学校の教師として、嘉内は甲州韮崎の若き地主として、その現実に直面し、村の惨状に為す術もない無力さを思い知らされた。
そういう中で二人はそれぞれ、試行錯誤を続けた。
自分にも経験があるのだが、賢治は困難に現実に直面すると、「こんなとき嘉内だったらどうするだろう。どう考えるだろう」と考えたに違いない。それは嘉内も同じだった。
彼らが羨ましいのは、二人ともに、自分の思いを文学的に表現する才能を持っていたところだ。
賢治の詩も童話も、全て嘉内への芸術的なメッセージ=暗号だったのであり、嘉内はそれを全て、読み解くことができたはずだ。
作品を通して嘉内は、学生時代と同じように賢治の思索と対決し、賢治とは異なるが賢治の誠実さに恥じない人生を生きようとしただろう。
賢治もまた、作品が嘉内に読まれることを想定して、嘉内を感服させることができるような作品を書かねばならぬと考えただろう。
二人の"友情"は、農村の現実に対する問題意識を共有し、それに正面から向かい合おうという誠実さを共有して、お互いを信頼し、お互い相手に恥じない人生を送ろうとしたところに成立したのである。
催しが終わったのち、畑で野良仕事に精を出しながら、そんなことを考えた。
雨のために畑はドロドロだったが、せっかく雨がやんだので、タマネギの種まき。
はと麦あとの片づけ。
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