ほぼ終日、秩父事件ホームページの作業。
コンテンツは概ね形になったので、あとはデザイン。
久しぶりに雪降り。
大陸の高気圧がいよいよ、腰折れになってきた。
関東山間部にとっては、これからが雪降りの季節だ。
ずいぶん積もったように見えたが、気温が高いので、すぐにとけはじめた。
夜は、パン作り。
ほぼ終日、秩父事件ホームページの作業。
コンテンツは概ね形になったので、あとはデザイン。
久しぶりに雪降り。
大陸の高気圧がいよいよ、腰折れになってきた。
関東山間部にとっては、これからが雪降りの季節だ。
ずいぶん積もったように見えたが、気温が高いので、すぐにとけはじめた。
夜は、パン作り。
午前中は、パン作り。
今日は酵母を少なめに使ったが、できあがりは殆ど変わらなかった。
午後、ボイラー周りの屋根作り。材料が足りないため、途中までで終わり。
ボイラーは屋外に設置してあるのだが、庇の下とはいえ、風交じりの雨だと濡れるので、覆屋を作る。
こういうのは、桧丸太で作ることが多いのだが、燃焼物なので、単管パイプで骨組みを作った。
屋根は、トタンのナマコ板で葺くつもり。
ボイラーは、長府工産製CG-121SWという型番のだと思う。
調子はまずまずなのだが、使用には、多少のコツが要る。
今まで灯油ボイラーは、湯に浸かりながら、リモコンですべて浴室からコントロールできたのだが、薪を燃やすとなると、そんなわけにもいかない。
風呂がぬるいと、「ぬるいから薪をくべてくれ」と叫ばなければならないし、湯温が上がると下げるのは簡単でない。
風呂桶いっぱいのお湯をわかすのに必要な薪の量も、うまく調整しなければならない。
しかしまぁ、道具にコツがいらないということは、いわゆる「サルでも使える」ということになり、人にとっては、退化してることになるのだろうから、面倒かつコツの必要なくらいが、ちょうどよいのではないかと思う。
写真は、オバンドウ峠近くから見た両神山・八丁尾根。
今朝は氷点下7.8度と、並の寒さだったが、週の後半にかけてこの冬の底を記録しそうである。
昨日、凍結により、自宅の水道管が破裂した。
すぐに修理してもらえたので、今のところ、特に問題ないのだが、明日から明後日にかけて、いくらか不安ではある。
1時間の休みをもらって早退し、薪作り。
今度設置したボイラーは、薪焚き兼用タイプだが、少々の薪で風呂を沸かすことができる。
薪の原料にする木は、自分の持ち山の木を使うこともなくはないが、ほとんどは貰い物である。
何も考えない人には、割った薪などただの「木片」でしかないだろうが、樹種により、割れ方や割りづらさも、さまざまだ。
頂いた木を割っていても、割った薪を火にくべていても、木をくれた人の顔が浮かぶ。
そして今、湯船に浸かっていても、薪にまつわる方々を思うことになる。
生産者の顔の見える食べ物であるべきだ、という話をよく聞くが、木を伐った方の顔の見えるお湯、という言い方を聞いたことはない。
いつまで薪割りを続けることができるか、わからないが、こういう暮らし方もあるのだと、認識を新たにした。
写真は、出勤前の自動車のフロントガラス。
氷の結晶が美しい。
もちろん、のんびり溶かしてる暇はないので、プラスチックのスクレーパーで削り落として、すぐに発進する。
朝は氷点下8.3度と冷え込んだが、昼間も8.4度あったので、風がなければ穏やかな日だった。
懸案だった新しいボイラーがようやく設置してもらえた。
久しぶりに、今夜から、自宅の風呂に入る事ができた。
『地性の人々』の読書ノートを追加。
お昼前から、町内岩殿沢の観音山にでかけた。
ここは、登山口まで自動車で10分かからないので、出遅れたときにちょうどよいのである。
札所31番の駐車場から歩き始めて、31番にお参りし、観音山へ急登した。
今日も季節風が吹きまくっていたが、天気はよく、周囲がよく見わたせた。
甲武信・両神・雲取などの山も見えたが、雲取山直下には、雲取山荘らしき物体まで見えていた。
観音山から落葉松峠へ下り、さらに嶽ノ腰集落と千鹿谷集落とを分ける尾根に登って千鹿谷に下った。
風呂はまだ直らないので、今日は、千鹿谷鉱泉で汗を流した。
写真は、尾根の上から見た、合角(かっかく)ダム。
写真に見えている水面下に、古い地形図に記載されている合角集落と森谷戸集落が沈んでいる。
山里で暮らす知恵の数々が、水に沈められている。
水没したのはもちろん、このニ集落だけではない。
ダム湖は、一般公募で多数だったという理由により、「西秩父桃湖(ももこ)」と名づけられている。
2001年に完成。完成時の埼玉県知事・土屋義彦氏のご長女は、桃子(ももこ)さんとおっしゃる。
2003年、政治資金規正法違反容疑で桃子さんは逮捕され、土屋知事は辞任された。
関西への3日間の小旅行から帰宅。
出かける寸前に、自宅のボイラーが壊れた。
普通の灯油ボイラーだったのだが、通常の耐用年数は、とっくに過ぎていたので、これは納得せざるをえない。
業者を探して、一応、修理を依頼しようとしたが、部品を含め廃盤なので修理不能という話だった。
そうすると、ボイラーの全面交換という話になるのだが、時期が時期だけに、話がスムーズに進まない上、ボイラーメーカーの代理店網というのは、あまり融通が効かないらしく、年明け以降に改めて仕切りなおしということになった。
関西行きは、移動に実働2日かかるので、実質的な滞在は1日だけだった。
少し時間があったので、京阪河内森・JR河内磐船駅周辺を少し歩いた。
といってもほんの少し歩いただけで、獅子窟寺を見に行ったりする余裕はなかった。
写真は、河内磐船駅。
クロガネモチの実が鈴なりだ。
終日、薪の積替えと農作業。
自然薯をようやく掘り終えた。
今年は、3うね半植えた。
毎年、この程度植えているが、今年は殊の外、掘るのに難儀した。
来年から、2うね程度に減らそうと思う。
自然薯の跡地で大根・人参などを作るために、耕耘。
ここの種まきは、お正月前後だ。
双葉状態のトンネルのニンジン潅水と除草。
ここ数年、歴史を学び直している中で、大いに反省しなければならない問題の一つは、「農業」もしくは「農民」という概念は、近代以降に捏造されたものではないかということである。
言うまでもなく、江戸時代に、「農民」という身分は存在しなかった。
存在したのは「百姓」だが、それは、「農業によって生活を成り立たせる人々」を意味していなかった。
事実、江戸時代に農山漁村で暮らしていた人々は、「農」を含むさまざまな生業(なりわい)によって暮らしていた。
「農」を主たる生業とする人々も存在したが、「百姓」とは「農」民のことだなどというのは、支配者が(軍役の算出上)便宜的に作り出した机上の空論でしかなかった。
壬申戸籍では、例えば、「平民 農」という記載方法がとられた。
ここには、商人・漁民・職人と「農」民を区別しようという意図が見える。
「農民」という概念の出発点はおそらく、このあたりにある。
近代以降、無数に存在した人の生業の中から、「農業」なる「業」を特別にピックアップして、あたかもそれが、産業の一つであるかのような論理操作が行われた。
最初は論理操作だったが、社会的分業の成立(というか創出)とともに、「農」を「業」とする人々が人為的に作り出された。
社会的分業とは、労働力配分の効率化のことだが、これなしに世界市場で勝ち抜くことのできる競争力を得ることはできなかった。
こうして、「農業」「農民」が成立した。
とはいえ、「農」の営みがすべて「農業」の概念に包摂されるわけではない。
「農」とは、生命を維持するために食べるものを自ら作り出すという人間としての宿命的な営みであり、生業とは次元を異にする。
社会的分業が広汎に成立した状況下にあって、「農」と無縁な人間の存在はあり得ないことではないが、それが一般化し、「農」が「業」として成立しなければならないかのような偏見は、新自由主義経済によるマインドコントロールではないか。
例えば自分のサイトにも、こんなふうに、「農民」という言葉を無批判に使っている。
このあたりは、早いうちに書き直さねばならない。
以上のようなことを、芋掘りしながら考えた。
朝は軽く氷点下になるのだが、昨日入った南の空気が残っていた今日の昼間は暖かかった。
明日はしっかりした冬型なので、寒くなるだろう。
引き続き多忙中で、畑や家の仕事には手をつけることができない。
写真は、家人の土産の大滝飴。
素朴かつ、真っ当で爽やかな甘味がある。
甘いとはこのように爽やかな感覚だという、よい例である。
残念ながら、もう作られなくなってしまうと聞いた。
久しぶりに農作業を少々。
トマト・ピーマン跡地に畝を立てて、マルチを敷き、チンゲン菜と小松菜予定地の準備。
種をもって行かなかったので、種まきはできなかった。
カブと人参に灌水。
ニンジンはまだ出ないが、寒い時期はいつもそうだ。
へたすると発芽に一ヶ月くらいはかかる。
自然薯掘り。
今年は自然薯掘りをサボっているので、まだまだ残っているのだが、重労働になるので、一度に10個くらいが限界。
大根の片づけ。
この時期以降、放置すると大根にスが入って、食味が著しく悪くなる。
大根もニンジンも、一度抜いて、別のところに埋め直せば、1月下旬くらいまで保存することができる。
今日は白い大根と赤い大根のみ処理した。
紫大根はまだいくらか残っている。
写真は、子檀嶺岳登山口近くから見た独鈷山方面。
遠くに、蓼科山が頭だけ出しているのがわかる。
山村に住む人が少なくなり、山林と田畑とのバッファゾーン(緩衝地帯)が消滅したことによって鹿や猿や猪が田畑に出没するようになったのは、事実である。
ここでは、バッファゾーンに、羊を放牧しているらしい。
害獣たちが姿を隠すことのできるヤブ地や潅木帯を羊の力で一掃することによって、害獣が近寄りがたくする試みである。
「バッファゾーン予定地を誰が提供するのか」「その人への補償をどうするのか」などの問題は多々あっただろうが、自治体が間に入ることによって、解決できたのかもしれない。
限界集落の悲哀をかこってばかりいても、何も進まない。
まして、旧態然たる人間関係にとらわれているだけでは、いたずらに時間を消費するだけである。
青木村の田畑は、当地に比べて、放棄されたところが少なく、現在もなお、耕作されているところが多い。
人口は既に4000人台になってはいるが、地域における暮らしは着実に根づいている感じた。
十観山の山頂近くには、ソーラー電源を使ったバイオトイレが設置されていた。
山を比較することに意味はない。
しかし、日本百名山とやらに入っており、毎日必ずおおぜいの登山者で賑わう当町の両神山には、小屋わきに設置された垂れ流しトイレしか、おかれていない。
郷土の山に対する姿勢が、ずいぶん異なるのである。
その落差も、感じさせる山行きだった。
十観山から下山した後、大法寺にお参りした。
国宝の三重塔をもつ、青木村の古刹である。
ちょうど7年前に子檀嶺岳に登った際にも、こちらに立ち寄った。
そのとき、お寺の石段下で、ご老人がわずかばかりの農作物を広げて、寒い中、大豆などを売っておられた。
7年前には、鞍掛大豆なども並べてあったが、緑色の大豆を買って帰ったと記憶する。
今回大法寺を再訪したら、寸分たがわぬ場所で、同じご老人が寒風の中、農作物を前に座っておられたので、驚いた。
またまた緑色の大豆を買ったのだが、「黒豆も買っていけ」というので、「自分の所では赤い大豆を作っているのだ」と言うと、「その豆を自分も作りたいから、今度来るときにはひとつかみ程の種大豆を持って来い」と言われた。
この次に大法寺を訪れるのがいつになるかわからないが、そのときには、忘れずに持って行こうと思う。
農作物の品種などというものは、こうやって広がり、その地に合わせて改良されていくものなのだろう。
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