すべてを無に帰してしまう可能性

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 火山の噴火と原発の安全性について、「一方、阿蘇山の破局的噴火については『頻度は著しく小さく、国は具体的な対策をしておらず、国民の大多数も問題にしていない』と指摘。『発生の可能性が相応の根拠をもって示されない限り、想定しなくても安全性に欠けないとするのが社会通念』」という判決が出てる(朝日新聞デジタル)のだが、コレは本当に裁判官が書いた判決文なのか?

 破局的噴火の頻度が著しく小さいのはアタリマエで、問題はそれがいつ発生するかであり、それを予測するのはほぼ不可能である。
 仮に噴火が一週間前に予測できたとして、一週間以内に原発を停止するだけでなく、核燃料のすべてを安全な場所に撤収することが、どうやって可能なのか?

 国が具体的な対策をしていないから安全だという理屈については、論外。

 阿蘇山の破局的噴火やアカホヤ大噴火が知られていないのは、文字史料に記載されておらず、学校等で教えられる機会が少ないからにすぎず、べつに社会通念じゃない。
 今すぐそれが起きる可能性は少ないが、いつか必ず起きることは、間違いない。

 経産省・東電は、なんぼ指摘されても耳をふさいで無視しておきながら、いざ津波が起きてメルトダウン事故が起きたら、そんなの想定外だったと言い逃れた。

 アカホヤ大噴火で、九州の縄文人は全滅した。
 しかし列島民は再び九州に住み着き、暮らしを築いて歴史を紡いできた。
 破局的な自然災害に遭っても、美しいこの列島は、必ず蘇る。
 原発事故は、この列島を人が住めない島に変えてしまう。

 すべてを無に帰してしまう可能性は、たとえどれだけ「著しく小さく」ても、あってはいけないのだ。

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