ムクゲ自然公園でコナラ間伐の手伝い。
今日は主として枝払いを終日、やっていた。
朝は暖かかったが、お昼前に寒冷前線が通過したものか、冷たい風が吹いてきた。
去年の枯れ葉がまだついているのに、ロウバイがほころび始めていた。
帰宅後、もらってきた80センチ玉を小切った。
ムクゲ自然公園でコナラ間伐の手伝い。
今日は主として枝払いを終日、やっていた。
朝は暖かかったが、お昼前に寒冷前線が通過したものか、冷たい風が吹いてきた。
去年の枯れ葉がまだついているのに、ロウバイがほころび始めていた。
帰宅後、もらってきた80センチ玉を小切った。
所用が発生して、奈良方面へ出かけてきた。
アチラも寒いことは寒いが、コチラの寒さとちがって、険悪さがない。
忙しかったので、目の保養はできなかった。
久しぶりに新幹線に乗った。
のぞみ号は初めてだった。
あまり揺れないので、ノートパソコンにテキストを入力するくらいは、快適にできた。
というわけで、『瀕死の双六問屋』と『伝馬騒動と義民・兵内』の読書ノートを追加。
北秩父の山日記に、天宮尾根 品刕 大日峠 3を追加。
京都駅近くの小さな濠で、マガモの夫婦が寒そうにしていた。
終日、ムクゲ自然公園のコナラ間伐の手伝い。
今日も、80センチ玉切りとボヤの処理。
明るいうちに作業を終えて帰宅後、いただいてきた玉を小切り。
日はまだ短いし、定時に帰れることはめったになく、超過勤務が普通だから、夜に薪を割ることはできない。
だから基本的に毎日、夜明け前後に薪を割っている。
「朝飯前」の仕事だ。
間伐に来ていたkurooさんから、第7回原画展の案内をいただいた。
業務山行で、品刕山地を歩いてきた。
武州日野駅から天宮尾根に上がり、品刕を経て文殊峠・札所三十二番・大日峠と登降して、小鹿野市街地へ出る。
ほぼ同じルートを、メンバーを変えてこれで四度目だった。
雪が降るかもという予報だったが、ほぼ快晴無風で、小春日和といってもよいくらい暖かく、好展望も得られた。
年末以来、休暇を使ってルート工作をしておいたのだが、その結果も上々だった。
帰宅後、薪作り。
鶏肉の燻製作り。
その後、パン作り。
へとへとに疲れた一日だった。
最低気温が氷点下7.8度と、この冬最低を記録した。
氷点下7度以下は今月3度目だが、去年1月の2度をはやくも上回った。
今のところ、今年は、寒い冬という形で推移している。
寒いのはいたし方ないが、水道管が毎日凍結して、早朝に水が使えないだけでなく、管の破裂などの心配をしなければならないのは困ったことだ。
最高気温は9.4度だからポカポカ陽気とも言えるが、日が陰ればたちまち氷点下になる。
ここから一ヶ月はじっと我慢だ。
先日いただいてきたコナラの玉を、毎朝、出勤前に割っている。
土日に仕事や出かける用事があるため、薪作りは平日にやらざるを得ないためだ。
朝は寒いし、身体が固まっているので、不用意に動くと腰や頚椎を痛める。
だからまず、十分なストレッチをしてから、斧を振る。
『変容する山村』の読書ノートを追加。
写真は、この間山で出会った鳥たち。
鳥は多いのだが、いい写真が撮れない。
落ち葉堆肥の切り返しをしなければならないのだが、本庄市で「中仙道伝馬騒動シンポジウム」が開かれると聞いたので、そちらに出かけてきた。
伝馬騒動については、『明和の大一揆』やいくつかの論文を読んだ程度しか知らなかったので、いい勉強になった。
シンポジウムの前に、美里町関の義民兵内(ひょうない)供養塔を見学した。
兵内は、20万人ともいわれるこの一揆のリーダーと目され、ただ一人死罪となった人物である。
兵内の罪科が、増助郷撤回嘆願を主導した点にあったのか、それとも願いが聞き届けられたのちに行われた打毀しに関連するのかは、明らかでない。
また、増助郷撤回嘆と打毀しの関連についても、実証的な研究を目にしていない。
このあたりが今後の研究課題なのだろう。
ほぼ終日、ムクゲ自然公園でコナラ間伐の手伝い。
今日も、伐倒でなく、倒した木を80センチに切る玉切りをずっとやっていた。
今朝も氷点下6.3度と冷えたのだが、風がなかったので、仕事している間は、汗だくだった。
帰宅後、一輪車の修理。
もらってきたコナラの小切り。
朝のうちに干しておいたチキンの燻製作り。
この燻製は、今日切ったコナラで作った。
これは、ピザ用。
夜は、ピザ作り。
写真は、干し納豆。
自家製納豆に塩を絡めて干したもの。
保存はきくし、ちゃんと納豆の味がする。
今朝は氷点下7.4度と、この冬最も冷えた。
いよいよ、本格的な冬になった。
野暮用があったので、また三十二番の奥に出かけてきた。
今日は、三十二番にお参りしたのち、大日岩へ登り、尾根を直進して、図根三角点から文殊峠まで行って(ルート)、用を足してきた。
午後は、秩父事件の研究会。
文殊峠の大モミを久しぶりに見てきた。
一方、図根三角点近くでは、かなり大きなモミの木が切り捨てられているのも見た。
最も大きそうな切り株の年輪を数えたら、樹齢約64年だった。
このあたりの里山も、戦後しばらくの木材需要期に、大々的に伐採されたのだろう。
このモミは、その伐採あとに芽生えたのである。
自分よりやや年配だから、それほど古い木ではないが、周りは30年生程度のコナラだったから、雑木林の皆伐を一度は体験しているけれど、その時には何らかの理由で伐られなかったのである。
今回、測量のために伐られてしまったのだが、直径70センチほどもある大木が斜面に捨てられているのを見ると、じつに罰当たりだと思う。
写真は、ここ数日のお出かけで見た、印象深い樹木たち。
いずれも、上野原周辺で見たものだが、上のふたつは、ネットで所在を確認していたが、下のふたつは、歩いているうちに偶然出会うことができたものである。
やはり、歩いてみなければ、わからない。
帰宅途中、夕方6時過ぎに、NHKラジオのニュース解説を聴いていたら、正延知行解説委員という人が、「(沖縄県名護市長選挙で辺野古移転反対派の現職市長が勝利したら)普天間基地の危険を除去するという首相・知事の取り組みがねじれてオカシナことになる」と二度にわたって発言していた。
NHK解説委員だって、何を言ってもよいと思うが、こんなことを言うなら、「ウチは政府の御用放送です」と表明してからにすべきだろう。
アホらしいので、謎のロックグループ「タイマーズ」のアルバムCDに切り替えた。
読書ノートに、『零式戦闘機』と『物語朝鮮王国の滅亡』を追加。
御正体山から下山したあと、道志村で大根の干葉を買った。
新鮮な大根葉はうまいものだが、秋は各種収穫物が多いので、食べずに捨ててしまうことが多い。
大根干葉は、それを無駄にせず、野菜類の欠乏する厳冬期に食べようという、暮らしの知恵なのだろう。
水に戻して使っても新鮮な大根葉にはかなわないが、多少スジばってはいるものの、これはこれでうまいのである。
道志村の御正体山を歩いてきた。
こちらは上野原の低山とは異なり、登山口からずっと雪だったが、トレースがあったので、特に問題なかった。
朝は晴れていたのだが、稜線に上がった午後になると、西丹沢や富士山は黒い雲に覆われ、展望には恵まれなかった。
しかし、展望を期待するより、ブナやモミの自然林を味わう山である。
無雪期に来てもいいところだろうと思うが、雪のブナ林はまた、一段と風情がよかった。
朝の気温が氷点下6度と、厳冬期らしくなった。
季節風も強くて冷たい。
寒気の影響がはなはだしい今、8日から9日にかけて通過する低気圧が、ひどい雪を降らせなければよいのだが。
落ち葉堆肥の一回目の切り返し。
夜はピザ作り。
上野原の酒屋さんで、せいだ芋の焼酎を売っていた。
せいだ芋とはジャガイモのことだが、どのようなジャガイモかは、わからない。
安永-天明期に甲斐国で代官を務めていた中井清太夫が導入して飢饉を救ったという口伝がある。
秩父在来芋が甲斐から来たという話もネットで読んだことがあるが、在来芋は「しんしいも」と呼ばれている。
「しんし」とは「信州」のことだから、「大滝芋」とか「中津川芋」と呼ばれる秩父在来芋は多分、信州系なのだと思う。
せいだ芋焼酎だが、癖のない風味で決して悪くはないのだが、特徴に欠ける感じがする。
もう少し寝かせて、ジャガイモらしい味が出てくれば面白いかもしれない。
昨日頑張ったので、今日はまた、前道志の低山に出かけた。
浜沢から立野峠に上がり、寺下峠-矢平山-大地峠と、前回より西の尾根を歩いて、四方津へ下山した。
風は弱いながらもしっかりした冬型で、寒気が入っていたため、尾根の陽だまりでも底冷えのする一日だった。
雲も多めで、富士山などは見えなかったが、まずまずの低山日和だった。
尾根では、この秋に枯れた花たちが、花がら状態ではあったが、しっかり自己主張していた。
畑の物置小屋づくり。
初代の小屋とほぼ同サイズだが、屋根がいくらか高いので、使い勝手はよい。
できれば、壁もほしいところ。
畑の木の大枝切り。
まずまず首尾よく伐れた。
時間がないとできない仕事がはかどってよかった。
夜はパン作り。
畑の物置小屋が崩壊してきたので、つくり直さねばならなくなった。
作ったのが2008年12月だから、5年しかもたなかった。
粗相な作りなのだから、仕方がない。
午前中は、小屋用のヒノキ丸太の加工。
先端をイスカに切って、元を焼いて焦がす。
そんなことをしている間に、豚肉の燻製作り。
これは、夕食のピザ用。
昨日立ち寄ったスーパーで、豚肉が安くなっていたのだ。
午後、田んぼの地主さんのところへ年始のご挨拶。
帰りに田んぼ近くにあるという、保阪嘉内と宮沢賢治の歌碑を見に行った。
碑は、地質博物館の庭に建てられているのだが、なんの説明板も立っていない。
賢治を知らない人はいないだろうが(賢治が地質を学んだことは知らない人が多いかも)、嘉内を知っている人はいないだろう。
嘉内なかりせば賢治の作品は生まれ得なかったかもしれないキーパーソンが小鹿野町を訪れた記念碑なのだから、もう少し何とかならないかと思う。
賢治の歌は、
さはやかに 半月かかる薄明の 秩父の峡の かへり道かな
嘉内の歌は、
この山は 小鹿野の町も 見へずして 太古の層に 白百合の咲く
である。
二基の碑は写真のように、当時の彼らと同様、褶曲した地層に目を輝かせながら、仲良く並んでいる。
そんなわけで、夜は、小麦を挽いてピザ焼き。
前道志の高柄山を歩いてきた。
古福志バス停から歩き始めて、金山峠-大丸山-高柄山-上野原と歩いた。
上野原周辺で樹木を見たり、神社や商店街まで見物してきた。
酒まんじゅうは、棡原でも絶えてしまったのかと思っていたのだが、今や上野原の名物になっていて、商店街には、酒まんじゅうの専門店がいくつもあり、お正月にもかかわらず営業されているのだった。
蒸かして食べたが、モチモチした食感で美味しかった。
二日間、身体を動かさずにいる。
昨日から今日にかけて、ホームページの手入れ。
手を入れるべきところはたくさんあるが、なんといっても「ルート地図」だ。
地理院地図にのせるルート図のデータ本体を作るのは、電子国土Webシステムを利用したGPSログ表示(あにねこさん作)を使えば簡単なのだが、それを自分のサイトに表示させるには、HTMLを一部書き換える必要がある。
トラックログを取り始めたのは2005年からだが、それ以来の山行度数は250を超えているだろう。
書き換えなければならないのはひとつのファイルにつき、4ヶ所だから大したことはないのだが、数が多いから、面倒であることに変わりはない。
複数のテキストファイルを一括置換できるフリーソフトもあるのだが、ミスったらあとが大変なので、今のところ手作業で書き換えつつある。
午後から、集落の新年会。
金剛山山行記を追加。