坂本村の秩父事件

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東秩父村にて


 秩父事件の現地見学会で、東秩父村に行ってきた。

 秩父困民党の一隊は、明治17年11月4日から5日にかけて、大野原村から三沢村を経て粥仁田峠を越え、坂本村に入った。
 隊長格は落合寅市だが、メンバーには、井上善作・木島善一郎・宮下沢五郎など、そうそうたる面々が顔を揃えている。

 この隊は坂本から小川町・今市村を経由して熊谷宿へ進撃することを企図していたが、警官隊及び東京鎮台の一小隊と粥仁田峠で戦って四散した。

 寅市は四国に潜伏したのち大阪事件に連座して逮捕され、服役したが、無事出獄して、秩父事件の顕彰に後半生を捧げた。「秩父事件」の名称は、寅市の命名である。
 沢五郎は重禁錮2年。
 善一郎は軽懲役7年の刑で獄死した。
 善作の行方は今もわかっていない。

 坂本村で、困民党軍および官側との応対にあたったのは、坂本村連合戸長役場筆生の福島敬三だった。
 福島敬三は、秩父でも有力な自由党員の一人だった。

 新井周三郎と門松庄右衛門が自由党入党願への連署を求めて敬三宅を訪れた際、困民を軽侮する発言をしたことは、敬三の「旦那自由党」的立場を示すものと評価されている。(その評価が妥当かどうかは留保したい)
 結果的に、自由党員だったにもかかわらず、秩父事件に積極的に参加したという証拠・証言が見いだされず、執拗な取り調べにもかかわらず、敬三は無罪となる。

 今回の見学で、もっとも興味をひかれたのは、福島敬三宅と連合戸長役場だった福島三郎(敬三父)宅だった。

 ご子孫によると、福島三郎・敬三父子がどのような渡世を営んでいたかは、不詳らしい。
 しかし同家が事件後、広大な山林・田畑を所有し、事件後も村の最有力者として君臨していたのは事実である。

 福島敬三は、「政治思想を持たぬ者など何人いても役に立たぬ」と豪語するほど、自らの政治思想の高さに自信を持っていた。
 彼が民権思想にそこまでのめり込むには、その手引きをした人物がいたはずである。
 それが誰かは、まったく謎である。

 思えば、秩父困民党群像の中に、敬三とよく似た人間がいる。
 一人は村上泰治であり、もう一人は加藤織平である。
 いずれも、若年でありながら裕福で、自由党にも加わっている。

 村上泰治は、事件当時すでに獄中にあったから、彼が自由の身であったとして、秩父事件に対しどのような態度をとったかはわからないが、この問いに対し「おそらく加わらなかっただろう」という事件参加者の証言がある。
 だとすれば、泰治も「旦那自由党」的な考え方の持ち主だったということになる。(この評価が妥当かどうかも留保したい)

 三人に共通しているのは、さほど広大な田畑を所有しているわけでないにもかかわらず、比較的裕福だという点である。
 織平は「質屋良介」とも呼ばれていたから、村内で金融業を営んでいたことがうかがえる。
 泰治も、「自由党入党を勧誘する際、小作人に田畑を解放した」という口碑があるから、質地地主だった可能性が高い。
 そうすると、福島家もまた、金融業によって村に君臨していたのではないかという気がする。

 村内金融業は、高利貸とは異なり、村人が生活上必要とする金円を融通する、村にとって必要不可欠な存在だった。
 従って村人からは、感謝されこそすれ、憎まれる立場ではありえず、いざというときにはもっとも頼りにされる存在でもあった。

 織平が立ち上がり、敬三が立ち上がらなかった(のかどうかについてもはっきりとはわからない)理由はやはり、各自の「政治思想」の実体にあったのだろうか。
 それとも、専制政府打倒に至る戦略の相違が、原因だったのだろうか。

 写真は、福島敬三墓所近くの地蔵像。

 帰宅前に、日没まで、玉ねぎ植えつけ準備。
 帰宅後、Mobable Typeを6.0にアップグレード。5.2へのアップグレードはエラーが出てどうしてもできなかった。今回は比較的スムーズだったが、ブラグインの動作不良が解決できず、見づらいページになっている件についてはおわびいたします。
 現在、解決の努力中。

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