甲武信三山
両神山
また、上信国境を歩いてきた。
今回は、信州北相木村から沢を詰めて赤火岳に上がり、尾根をぶどう峠まで歩いた。
尾根には比較的はっきりした踏みあとがあるのだが、相木川源流から赤火岳へは、スズタケの薮と急斜面のため、かなり手こずった。
展望のよい岩峰もあるのだが、御座山の巨体にも遮られて、見晴らしは今ひとつだった。
ぶどう峠を越える県道が走れるのも、そろそろおしまいになりそうだ。
下山後、畑で落ち葉堆肥枠の組み立て。
また、上信国境を歩いてきた。
今回は、信州北相木村から沢を詰めて赤火岳に上がり、尾根をぶどう峠まで歩いた。
尾根には比較的はっきりした踏みあとがあるのだが、相木川源流から赤火岳へは、スズタケの薮と急斜面のため、かなり手こずった。
展望のよい岩峰もあるのだが、御座山の巨体にも遮られて、見晴らしは今ひとつだった。
ぶどう峠を越える県道が走れるのも、そろそろおしまいになりそうだ。
下山後、畑で落ち葉堆肥枠の組み立て。
少しずつ、落ち葉集めを始めた。
来年のジャガイモ植えつけには、間に合わせたい。
西上州の山に、マムシ尾根山行記を追加。
読書ノートに、『古墳とヤマト政権』と『短命化が始まった』を追加。
『短命化が始まった』は山梨県棡原村を分析した本だが、とても力の入った好著だった。
寒冷前線通過に伴う雨がやんだ。
今日は暖かいが、明日以降冷え込むはずだ。
長尾根で職場の小さなイベントがあった。
朝霧が次第に晴れて、濡れた落ち葉が輝き、黄葉したコナラ林が鮮やかだった。
過日歩いたマムシ岳の尾根を、峠から長野・群馬県境まで歩いてきた。
この尾根に踏み跡があることは、栂峠からぶどう峠まで歩いた時に気がついていた。
この時には、県境を行くはずが、思わずマムシ尾根に引き込まれるというルートミスをしでかしている。
今日は、ゲンナイから峠へ登り、尾根を県境へ、さらにぶどう峠まで歩いた。
ぶどう峠を越える県道上野小海線が通れるのもあと少しだが、今のところ積雪もなく、四輪駆動にすれば問題なく通行できた。
帰宅後、軽トラのタイヤをスタッドレスに交換。
昨年から庭に転がっている難物の玉を薪割り。
主として桜と銀杏だが、時間のあるときでないと、とてもやってられないのである。
畑の大豆の収穫。
今年の大豆は豊作なのだが、取り入れが遅れたため、脱粒して甚だしく損耗した。
もう少し早く取り込めばよかったのだが、あとの祭り。
ヤーコンの掘りとり。
ヤーコンは長らく、「サラダオカメ」を累代更新しているのだが、次第に芋が小さくなっていくような気がする。
短形自然薯・いんげん豆・四角豆などの支柱の片づけ。
ナメコの収穫。
ナメコも発生し始めると、とても食べきれない。
デジカメを持ち歩かなかったので、今日はマムシ岳の樹木の写真。
メールソフト「秀丸メール」を設定。
Thunderbirdを使おうかとも思ったのだが、エディタの秀丸ライクな使い方ができるというので、こちらにした。
デスクトップのインターフェースは、Classic Shell をインストールして、XPライクにしたが、やはりどこかおかしいし、使い勝手の悪いことこの上ない。
また二子山に行ってきた。
今度は若い人たちと一緒で、バスでアプローチした。
紅葉は一段と進んでおり、もはや盛りを過ぎてはいたが、まだ十分楽しめた。
下山後、自宅で薪作り。
パソコンを新しくした。
今までのマシンに問題があるわけではないのだが、OSのサポートが来年4月で切れてしまうのと、現行のWinXPがWin95以来のバージョンアップ版であるために、新規インストールに手間がかかること等の理由で、Win8.1プリインストールのBTOモデルにした。
プロセッサをインテルcore-i5にしたので、処理速度に期待が持てる。
とはいえ、長らくWin95以来のインターフェイスに親しんできたものに、Win8.1は使いづらい。
そもそもどうして、聞いたこともない用語で画面の使い方を解説するのか、理解し難い。
とりあえず、立処山の写真である。
今朝は氷点下1.7度と、さらに冷え込んだ。
中里村の立処山から明家集落までの尾根とオバンドウ峠を歩いてきた。
展望が得られるのは立処山のピークだけだったが、ハイカーのいない晩秋の里山をのんびり歩くことができてよかった。
明家には人の住んでいる気配がなかった。
帰宅後、薪作り。
この間もらってきた銀杏とヒマラヤ杉の小枝を細かくした。
メガネが弱くなってきたので、新しいのを頼んでおいたのだが、それができたというので、町まで行ってきた。
メガネ屋の看板には安くできると大書してあるのだが、ちゃんとしたのを作ると、ずいぶん高いのである。
この朝は、0.6度とずいぶん冷え込み、強い霜が降った。
畑の夏作物は、すべて枯れ果てただろう。
トチやヒマラヤ杉の枝をいただける話があったので、軽トラ一台分ほどいただいた。
これからぼちぼち、来年用の薪作りを始める。
Movable Typeのアップグレードに伴い、Internet Explorer で読書ノートと山の花讃歌の表示がおかしくなったので、スタイルシートを転送して復活。
アップグレードに伴う不具合は、これでほぼ解消したようだ。
と思ったら、アーカイブの表示がまだおかしい。
原因を突きとめるのに、今少し時間がかかりそうだ。
写真は、マムシ岳の紅葉。
恒例の渓流清掃山行。
今年は、大血川下流部を片づけた。
釣り人によると思われるゴミは、二度の台風による増水で流れてしまったのか、ほとんど見あたらなかった。
大血川は、釣れない川だが、今日はじつにたくさんのヤマメが走るのを見た。
来年は、ここでヤマメと遊びたいものだ。
向沢の先で、大宴会の後なのか、車道から投棄したものか、大量のゴミを拾ったので、今日はそこまでとした。
下山後、畑に行って、玉ねぎ苗の植えつけ。
先日伐った柿・梅の小枝の、ボヤ丸き。
秩父事件の現地見学会で、東秩父村に行ってきた。
秩父困民党の一隊は、明治17年11月4日から5日にかけて、大野原村から三沢村を経て粥仁田峠を越え、坂本村に入った。
隊長格は落合寅市だが、メンバーには、井上善作・木島善一郎・宮下沢五郎など、そうそうたる面々が顔を揃えている。
この隊は坂本から小川町・今市村を経由して熊谷宿へ進撃することを企図していたが、警官隊及び東京鎮台の一小隊と粥仁田峠で戦って四散した。
寅市は四国に潜伏したのち大阪事件に連座して逮捕され、服役したが、無事出獄して、秩父事件の顕彰に後半生を捧げた。「秩父事件」の名称は、寅市の命名である。
沢五郎は重禁錮2年。
善一郎は軽懲役7年の刑で獄死した。
善作の行方は今もわかっていない。
坂本村で、困民党軍および官側との応対にあたったのは、坂本村連合戸長役場筆生の福島敬三だった。
福島敬三は、秩父でも有力な自由党員の一人だった。
新井周三郎と門松庄右衛門が自由党入党願への連署を求めて敬三宅を訪れた際、困民を軽侮する発言をしたことは、敬三の「旦那自由党」的立場を示すものと評価されている。(その評価が妥当かどうかは留保したい)
結果的に、自由党員だったにもかかわらず、秩父事件に積極的に参加したという証拠・証言が見いだされず、執拗な取り調べにもかかわらず、敬三は無罪となる。
今回の見学で、もっとも興味をひかれたのは、福島敬三宅と連合戸長役場だった福島三郎(敬三父)宅だった。
ご子孫によると、福島三郎・敬三父子がどのような渡世を営んでいたかは、不詳らしい。
しかし同家が事件後、広大な山林・田畑を所有し、事件後も村の最有力者として君臨していたのは事実である。
福島敬三は、「政治思想を持たぬ者など何人いても役に立たぬ」と豪語するほど、自らの政治思想の高さに自信を持っていた。
彼が民権思想にそこまでのめり込むには、その手引きをした人物がいたはずである。
それが誰かは、まったく謎である。
思えば、秩父困民党群像の中に、敬三とよく似た人間がいる。
一人は村上泰治であり、もう一人は加藤織平である。
いずれも、若年でありながら裕福で、自由党にも加わっている。
村上泰治は、事件当時すでに獄中にあったから、彼が自由の身であったとして、秩父事件に対しどのような態度をとったかはわからないが、この問いに対し「おそらく加わらなかっただろう」という事件参加者の証言がある。
だとすれば、泰治も「旦那自由党」的な考え方の持ち主だったということになる。(この評価が妥当かどうかも留保したい)
三人に共通しているのは、さほど広大な田畑を所有しているわけでないにもかかわらず、比較的裕福だという点である。
織平は「質屋良介」とも呼ばれていたから、村内で金融業を営んでいたことがうかがえる。
泰治も、「自由党入党を勧誘する際、小作人に田畑を解放した」という口碑があるから、質地地主だった可能性が高い。
そうすると、福島家もまた、金融業によって村に君臨していたのではないかという気がする。
村内金融業は、高利貸とは異なり、村人が生活上必要とする金円を融通する、村にとって必要不可欠な存在だった。
従って村人からは、感謝されこそすれ、憎まれる立場ではありえず、いざというときにはもっとも頼りにされる存在でもあった。
織平が立ち上がり、敬三が立ち上がらなかった(のかどうかについてもはっきりとはわからない)理由はやはり、各自の「政治思想」の実体にあったのだろうか。
それとも、専制政府打倒に至る戦略の相違が、原因だったのだろうか。
写真は、福島敬三墓所近くの地蔵像。
帰宅前に、日没まで、玉ねぎ植えつけ準備。
帰宅後、Mobable Typeを6.0にアップグレード。5.2へのアップグレードはエラーが出てどうしてもできなかった。今回は比較的スムーズだったが、ブラグインの動作不良が解決できず、見づらいページになっている件についてはおわびいたします。
現在、解決の努力中。
日没が早いので、早朝以外に畑仕事ができないのだが、夜明けすぐに家を出ることもままならないので、やるべきことが進まない。
「両神山群」に二子山山行記を追加。
二子山からは、眼下に叶山が見える(上の写真)。
この山は二子山と同様、純度の高い石灰岩でできている。
ベンチカット法といい、山体上部を発破で崩し、重機を使って、平坦化した山頂部から山体下部に掘られた採石場へ崩した石片を落とす。、
つい先日まで、地下ベルトコンベアを使って、ここから秩父市大野原にあるセメント工場まで原石を運んで製品を作っていたが、現在、大野原工場の操業縮小に伴い、ベルトコンベアは動いていない。
コンベアのルートは、地形図にも記されている。
叶山鉱山のあるところにはかつて、叶後(かのううしろ)という集落があり、群馬県側からは、牢口と称される岩のすき間を通らなければ行くことができない秘境中の秘境だったらしい。
秩父側最奥の坂本集落から魚尾道峠を越えれば、すぐに叶後に行けるのだが、この道は現在、通行止めで、廃道化しつつある。
山歩きを始めたころ、叶山に続いて、二子山でも石灰採掘が始まるという噂だった。
二子山よりやや下手にある毘沙門山(白石山)は、うちの裏山だが、すでに石灰採掘が始められたものの、途中で中止され、そのままになっている。
二子山は、両神村と合併するまでは小鹿野町でもっとも著名で、人気のある山だったため、眼前の利のために二子山を崩すことには、地元の抵抗があったという。
結果的に、二子山は無傷で残ることになった。
次に二子山のことが気になったのは、『岩と雪』第136号の記事を読んだ時だった。
「特集・秩父二子山の岩場」と題した記事には、「ガバホールドはたたき落とし、痛いホールドは丸くし、掃除してヌンチャクをセットして準備完了」とか「ルート開拓に伴う木の伐採については、今まで自分たちがやってきたので強くは言えないのだが、身勝手な考え方で申し訳ないがこれからはなるべく切らない方向でやって行きたいのでご協力願いたい」などという言葉が、楽しげな文脈で語られていた。
つまり、ここに登場する人々は、クライミングルートの難度を下げるような木やホールドを伐ったり叩き落として、ルート「開拓」をしていたらしいのである。
民有林におけるそのような行為の民法上の意味についてはさておき、太古以来の造山活動によって地球が創造した奇跡ともいうべき二子山を、遊びついでに叩き割ったり、クラックに芽生えた樹木を伐ったりするという行為を、この人々はどのように考えていたのだろうか。
彼らの行為は結局、山を消耗品程度に考える都会民的発想の域を出るものではなかったのだろう。
都会に住むことが悪なのではない。
岩や沢や、そこにある生態系や山の幸に、どのように向き合うのかが、問題なんだと思う。
この日、午前8時頃に股峠を通ると、テントが3張り、張られていた。
テントの周りには、前夜の宴会の跡がおそらくそのままになっており、クライマーたちはまだ眠っているようだった。
股峠は、二子山ハイカーのほとんどすべてが通る、交通の要所である。
朝まだ早かったが、何人ものハイカーがテントのわきを通り過ぎていった。
一時間ほどを要して東岳をピストンしてきたが、テントとその周囲は、相変わらずそのままになっていた。
西岳を回ってこの日三度、股峠を通ったときには、テントは片づけられていたが、登山道にザイルなど登攀具を広げたままで岩に取りついているパーティがあった。
坂本へ下る途中にも、道の真ん中にザックを下ろし、登山道を占領して休んでいるパーティを見かけた。
この傍若無人さが、岩を割り木を伐る行為と共通していなければいいのだが。
終日、在宅。
業務上の動画編集作業で、一日が過ぎた。
こういう作業は、脳髄が疲れる。
朝のうち雨で、午後は曇りだったので、これもよしとするが、天気がよかったりすれば、目も当てられない。
久しぶりに岩の山を歩いたので、全身筋肉痛だ。
こちらは気持ちのよい疲れである。
写真は、二子山の印象的な樹木たち。
天気がもちそうだったので、上野村のマムシ岳を歩いてきた。
すぐ手前まで行かないとピークを目にすることができない、ちょっとした秘峰である。
鉄塔巡視路を拾えば、周回できると踏んでいたのだが、それほど甘くはなく、なかなかの難路だった。
マムシ岳まではさほど苦労しなかったが、さすがに西上州の尾根だけあって、稜線上には岩峰が点在し、リングワンデルングを含め何度かルートミスした。
紅葉は、とても見事だった。
下山後、畑でソバ刈り。
刈ってすぐに、プラクチックの大きな樽にこき落として脱穀。
台風で倒伏したものの、去年よりは豊作だと思う。
ウコンを掘っていたら、日が暮れた。