めくるめく多忙な一年が暮れる。
来年が思いやられる。
写真は、葛城山行きの一部。
めくるめく多忙な一年が暮れる。
来年が思いやられる。
写真は、葛城山行きの一部。
南岸低気圧が本州南岸を舐めるように進んだため、気温があがり、この季節には珍しい雨となった。
数日前には氷点下7度を下回っていた朝の気温も、氷点下にさえならない暖かさだった。
薪作りも出来ないので、ほぼ終日、原稿書き。
四ツ又山山行記を追加。
昨日夕刻から降り始めたが、大雪注意報が出ていたけれど、たいした降りにならなかったので、助かった。
今日は終日、薪作り。
とりあえず、お正月のあいだ燃やすくらいの薪はできた。
葛城山の写真をいくらか整理した。
上は、あちこちでみた鳥たち。
ワカタケル命が多くの家臣を伴って葛城山に行ったとき、大王のような身なりの人物が尾根を歩いていた。そこで「この大和に自分以外の王はいないはずなのにあいつは誰だ」と尋ねさせたが、大王のような態度で答えた。そのためワカタケルは大変怒って家臣の弓に矢をつがえさせ「名を名乗れ!」と問うと、「自分は悪いことも一言、良いことも一言で言い放つ、葛城の一言主命である」と答えた。ワカタケルは武器を収めて家臣の衣服を脱がせて差し出し、拝礼した。それでワカタケルが帰途につくとき、一言主命は山裾まで見送ってくれた。 |
記紀は、全体として「天皇」による支配を正当化する文脈で構成されているが、記紀に登場する「天皇」は、意外に人間くさかったりする。
ワカタケルと一言主命の邂逅の場面は、歴史学では、大和に本拠を持つ勢力と葛城に勢力を持つ勢力の緊張関係を象徴すると考えられているようだが、記紀の一読者としては、このエピソードから、一言主命に出会ったワカタケルが、ひどくうろたえている印象を受けるのである。
ある日ワカタケルは、スクネほか数名の家臣とともにウサギ狩りに出かけ、つい深追いして葛城一族の支配地である葛城山麓に立ち入ってしまった。この日に随行した家臣が数名に過ぎなかったのは、戦争に出かけたのではなくウサギ狩りだったからだった。後に記紀が百官を伴ったと記しているのは、大王が数名でウサギ狩りをするというのもみっともないと考えた編集者の潤色である。 ワカタケル一行が葛城に入ったことに気づいた一言主命、すなわち葛城の王は血相を変えて山から降りてき、一行の数十メートル手前で立ち止まって、ワカタケルを睨みつけた。ワカタケルがうろたえたのは、自分に非があることを自覚していたからである。 この場合、「どうもすみません」と言って引き返すのが当たり前なのだが、先方からなんと言って叱責されるかわからないし、馬鹿にされたりすると大王の沽券に関わるので、とりあえずここで彼は、虚勢を張ることにしたのである。 ワカタケル:おいスクネ、あいつの名前を聞いてみ。 スクネ:えー、オイラがですかぁ。やだなぁ。 ワカタケル:聞けっちゅうのに。 スクネ:(いやいやながら)恐れ入りますが、どなた様でいらっしゃいますか。 一言主命:(憤然として)・・・・・・ スクネ:(振り向いて)答えてくれないです。多分怒ってるです。帰りましょう。早く。 ワカタケル:(やむなく)あんた、誰? 一言主命:しゃべる気にならん。 ワカタケル:何ですと? 一言主命:失礼なやっちゃな。お前こそ誰やねん? ワカタケル:ワカタケっちゅうもんですが、ここはどこでっしゃろ。 一言主命:ワシの国やがな。 ワカタケル:そら知らなんだ。えらいすんません。こいつの服をあげまっさかい、堪忍して。(とスクネに服を脱ぐよう命じる) スクネ:(いやいやながら)あぁさぶ。早よ帰りましょう。 ワカタケル:そうやのう。(一言主命に向かって)ほな、失礼します。 一言主命:もう来んなよ。 ワカタケル:ほんまにすんません。さいなら。 |
これくらいの経緯があったのだが、記紀の編集者に潤色されてしまったのだろうという気がする。
写真は、葛城山から望んだ大和盆地。
畝傍山と耳成山が見える。
葛城山を歩いてきた。
御所市側のロープウェー駅から櫛羅ノ滝を経由するコースを登って山頂へ至り、北尾根コースを同じ登山口へ下山した。
かなり寒くはあったが、山頂草原に積雪はほとんどなく、よく晴れてもいたので、大和平野や真っ白に冠雪した大峰・高野の山々がよく望まれた。
下山したのが早かったので、山麓を歩きながら、神社仏閣めぐりもしてきた。
読書ノートに、『明石原人の発見』、『見果てぬ夢「明石原人」』、『謀略』、『戦争で死ぬ、ということ』を追加。
東大阪市の石切劔箭神社にお参りしてきた。
近鉄石切駅から神社まで、さほど遠くもないのだが、いかにも門前町らしく、参道には商店が続いていた。
事情を全く知らないのだが、山門(だった大門)は商店街とは別方向に建っていた。
山門には、さほど古くなさそうな神像が安置されていた。
境内では、腫れ物封じの願かけをする人なのか、数十人くらいの人が、拝殿前を忙しく行きつ戻りつしていた。
拝殿前の巨楠は、樹齢五百年弱といわれるが、元気そのもので、シダのついた巨大な枝を四方に張り出し、拝殿を圧倒する大きさでそびえていた。
参道沿いの、千手寺にも立ち寄った。
大きなお寺ではないが、役行者が開基して在原業平が再興したという口伝を持つ。
さすが文字で書かれた歴史のある地だけあって、出てくる名前がスター級ばかりだ。
先日、鹿岳に登ったとき、四ツ又山にも久しく行ってないのを思い出した。
記録によれば、この前に登ったのは1990年だった。
当時、デジカメなどもちろん持っておらず(たぶん存在すらなかった)、写真もたくさん撮れなかったのだが、不思議な石像が多く、面白い里山だった。
今日の主要な目的は、石像めぐりだった。
よく晴れてはいたが、強い冬型のため、季節風が強く、ちぎれた雪雲が流れていて、展望は今ひとつで、浅間山も見えなかった。
鹿岳まで足を伸ばそうかとも思っていたのだが、マメガタ峠あたりで横殴りの風花が飛んできたので、素直に下山した。
下山後、風呂用の薪作り少々。
畑に行って、ネギ・玉レタス・ゴボウの収穫と埋蔵しておいた大根の掘り出し。
今日もほぼ一日、薪作り。
今割ってるのは桜で、来年用の薪だ。
ネギが完成した。
今年のネギは信州の松本一本太である。
畑は「ゴンベ土」と呼ばれる岩石崩壊土だから、利根川べりの沖積土で作られる石倉や深谷ネギにはあまり合わないかもしれない。
松本一本は曲がりネギで作るのが基本らしいが、それだと却って手間がかかるので、一般的な作り方で作っている。
読書ノートに『秩父に革命の嵐吹く 』、『福島原発の真実』、『ルポルタージュ戦後史(上下)』を追加。
ずいぶん寒く感じたが、朝の気温は氷点下3.9度だった。
気象庁のデータは、秩父市上町で計測しているから、山間部の当地とは、かなり異なっているはずだ。
冬の両神山山行記を追加。
二ヶ月ぶりの両神山から帰宅。
今回は、白井差からの白井差新道を登って、清滝小屋に泊まり、日向大谷に下山した。
白井差から入山するのは20年ぶりだったが、前回歩いた一位ヶタワからの道が廃道になったので、今回は、地主の山中さんが独力で開かれたという新道を登った。
ここは、急登や鎖の必要なところを巧みに避けてつけられており、周囲の風情もよく、両神山をめぐる幾つかのコースの中でも秀逸なコースだった。
土曜日に寒冷前線が通過したはずなので、山は荒れて当然なのだが、どういうわけか終日よく晴れて、風も穏やかだった。
これはありがたかった。
他の宿泊者がいなかったので、今回も清滝小屋でお世話になったが、夜中の3時過ぎに登山者がぬっと入ってきたのには、たまげた。
下山後、畑に行って自然薯の掘り取り少々。
今年は自然薯も不作だった。
原因は肥料不足。一度も追肥をしなかったからだ。
写真の両神山は、秩父市内から小鹿野へ帰る途中で撮影したもの。
今朝は氷点下6.3度だった。
昨年は、年内に氷点下6度を下回ったことはなかったから、この時期としては立派な寒気だ。
ここ数日は冬型がしっかりしているから、しばらく寒いが天気はよさそうだ。
関東地方で寒冷な季節風が吹いているということは、日本海側や脊梁山脈は大荒れだということで、先週末以来、山岳遭難が続発している。
今週末に奥秩父へ幕営山行を予定しているのだが、陸地に接近する南岸低気圧のために、雨になりそうだ。
この時期の雨もうれしくない。
飯田蕪菜が漬かった。
先週あたりはまだ塩っぱかったが、塩をいくらか抜いてもらうといい塩梅だ。
いくらかスジっぽいが、いかにも山村に根づいた菜っ葉らしい。
味はよい。
今朝は、公称氷点下5.5度。
終日、家事と農作業。
しばらく使わない農業資材の片づけ。
コンニャク芋と芋ウコンの整理。
畑でヤーコンの掘り上げ。
今年のヤーコンは不作だった。
霜が降りる前に刈り取って乾燥させておいたヤーコン葉を粉に挽いてみた。
ヤーコン茶の効能を吹いているサイトが多いが、別に信用していない。
ただ、貧血がひどいので、カフェインを含まない飲み物を飲んだほうがいいような気がするまでだ。
かなり不味いので、たくさん飲む気にはならない。
不味いのは畑に窒素が多すぎるからだといっているサイトもある。
夕方前に、先日玉切っておいた桜の運搬。
この週末は、自宅で、瀬音・源流部会の忘年会だった。
いつものメンバーが集まって、楽しいひと時を過ごすことができた。
今日は、この冬のパン焼き始め。
スタートは、白神こだま酵母を使ったが、例年同様のよい出来だった。
午後から畑に行って農作業。
風のやみ間に引き続き、枯れ草燃し。
里芋の掘りあげ。
北京紅芯大根の片づけ。
片づけとは、抜きとって葉を切り落とし、土中に埋めて保存することである。
こうしておけば、おおむね1月下旬まで、新鮮な状態を保つことができる。
青長大根はすでに片づけてあるので、大根の片づけは、これでほぼ終了した。
今朝の気温は、公式発表で氷点下5.1度。
さすがにここまで下がると、日陰の土は硬く凍っている。
管理機で耕そうとしても、刃が土に跳ね返されてしまう。
写真は、一昨日見た、自在神社本殿の透かし彫り。
片方の神像は、差金らしきものを手にしており、もう片方は、鋸と手斧を持っているようだ。
神社は大己貴命と在地の土豪・村上義光を祀っているが、山頂には、大己貴命と摩利支天の石塔がおかれている。
大工と木地師にも関係があるのかもしれない。
朝の気温が氷点下4度と、本格的な冬を感じさせる日になった。
今日は、陸稲を精米するために、信州坂城まで出かけてきた。
軽井沢あたりでは、車線を規制して、トンネル天井点検に余念がないようすだったが、走っていて気分はあまりよくなかった。
精米だけではなんなので、登山口近くに籾すり精米機のある自在山(地形図には「岩井堂山」とある)を往復してきた。
自在山は、標高は低いが、一見すると独立峰にも見える急傾斜のピークで、戦国時代には、村上氏の烽火台がおかれていたらしい。
ほぼ全山がアカマツ林で、秋には止め山になる。
山頂は、いかにも烽火台あとらしく整地されており、今は烏帽子岳の見える東側が伐開されているが、浅間山は見えない。
仕事を早々に切り上げて、農作業。
枯れ草燃しと自然薯掘り少々。
枯れ草燃しは、時間があって風のない日にしかできないから、そうそうはかどるものではないが、いくらか片づいたので、よかった。
今年の自然薯はあまりよい出来ではないが、気長に掘れば、それなりに穫れるだろう。
秋インゲンとシカクマメの片づけ。
アスパラガスの地上部を刈っていたら、日が暮れた。
畑の一角で作っているナメコが発生のピークを迎えている。
低山にもしナメコが出るとすれば、今の時期なのかもしれない。
今年、日没が最も早いのは、あした12月5日と6日で、16:27である。
当然、5時過ぎには完全に日が暮れているから、退勤後の畑仕事など、全く不可能なのである。
ちなみに日の出が最も遅くなるのは、ちょうど約1か月後だ。
少し早く職場をあとにして、短形自然薯の支柱の解体。
暗くなると、紐をほどくのが、えらく大変なのである。
これが終われば、少しずつでも自然薯掘りができるというものだ。
近所の家の木に、ヒラタケが出ていた。
いわゆるカンタケというやつだが、2010年には信州上田の里山でも見ている。
冬枯れかけた雑木林をのんびり歩けば、この程度の個体を見つけることもできるのだろうが、忙しくて話にならない。
昨夜の雪は顔見せ程度にしか降らず、ほとんど積もることはなかったが、タイヤを交換しておかなければ、今日の出勤はおぼつかなかった。
今日は、秩父神社の例大祭で市内は混雑するから、早めに帰宅して、薪割りと梅の剪定をした。
ツルウメモドキの実がまだ残っているので、いろんな野鳥が訪れる。
ホオジロは、ほぼ一年中、庭で遊んでいる。
終日、家事と農作業。
今朝は、公称氷点下3度と、かなり冷え込んだ。
午前中、近くの公園で、もらってある桜の玉切り。
いくらかはかどったが、まだずいぶん残っている。
自動車のタイヤ交換。
出勤時に夏タイヤで走るのは、もう限界だ。
夕方前から畑に行って、日没まで、飯田蕪菜の抜き取り、枯れ草燃しなど。
飯田蕪菜の収穫はこれで終了。
イモ類の収穫が全然進んでいないので、今週は仕事を休んででも、頑張らねばならない。
夜になってから雪が降り始めた。
この冬の初雪だ。
鹿岳山行記を追加。
農作業に費やす時間が全くとれないのだが、放置するわけにもいかないので、飯田蕪菜を2/3ほど抜き取り。
霜に焼けて、葉の先端が紫色に変色しているが、変質しているわけではない。
相変わらず時間がないが、これから漬け込みに入る。