ほぼ終日、秩父事件ホームページの作業。
コンテンツは概ね形になったので、あとはデザイン。
久しぶりに雪降り。
大陸の高気圧がいよいよ、腰折れになってきた。
関東山間部にとっては、これからが雪降りの季節だ。
ずいぶん積もったように見えたが、気温が高いので、すぐにとけはじめた。
夜は、パン作り。
ほぼ終日、秩父事件ホームページの作業。
コンテンツは概ね形になったので、あとはデザイン。
久しぶりに雪降り。
大陸の高気圧がいよいよ、腰折れになってきた。
関東山間部にとっては、これからが雪降りの季節だ。
ずいぶん積もったように見えたが、気温が高いので、すぐにとけはじめた。
夜は、パン作り。
引き続き、秩父事件ホームページの構築作業。
なかなか進まない。
写真は、飛竜山で見た足あとたち。
降雪をみたあとは、各種動物の足あとが多い。
二日間で、猪・鹿・カモシカ・小動物・(多分)犬・人間などの足あとを見た。
うち人間は、性別不明で、身長は165センチくらいで中肉か痩せ型である。(足あとから判断)
上はテンか何かだろうか。登山道を横切っているものもあったが、このように、登山道を歩いているのもあった。
下は、自分の足あとである。
奥秩父・飛竜山から帰宅。
日曜日の朝に、親川から高畑・後山の廃村、丹波天平、竿裏峠を経て三条の湯まで行って宿泊。
天気はよくなかったが、味わい深い山歩きができた。
夜は小雪。
今朝早くに三条の湯を出て、北天のタル経由で飛竜山に登り、前飛竜経由で再び竿裏峠へ降りて、丹波へ下山した。
天気はよかったが、北天のタルから飛竜山一帯の縦走路は、膝ほどまでのラッセルで、かなりきつく、今日の午前中ずっと、雪と戦っている感じだった。
写真は、飛竜山の景観。
午前は秩父事件ホームページの構築作業。
午後、荒川水系渓流保存会の総会。
渓の話題で盛り上がると、今年こそ絶対に仕事を休んで釣りに行くぞ、という気持ちになる。
たいへんよいことだ。
帰宅後、大量の薪作り。
写真のような酒を飲み始めた。
思わず、居住まいを正してしまうような酒ではないが、すっきりとした感じに仕上がっている。
勤務先が関わっている酒なので、宣伝を兼ねてご紹介する次第である。
秩父事件研究顕彰協議会の新サイト構築作業を根詰めしてやっているため、やや欝である。
秩父事件については、1999年にこちらのサイトを作ったのだが、ほとんど更新できずに放置状態である。
このサイトは、故江村栄一氏がインターネットサイトの必要性を力説されていた(江村氏は英語サイトも併設すべきだと言われていた)のに触発され、数日で作ったものだった。
その後、秩父事件研究顕彰協議会でオフィシャルなサイトが作られたので、ほぼその役割を終えたと感じていたものであるが、諸般の都合で同会のサイトが閉鎖もやむなしという状況に立ち至ったため、現状のコンテンツはそのままに、再構築を図っているものである。
いずれどなたかに引き継ぐこともあると思うので、サイトを Movable Type で制御できるようにするつもりだが、なかなか思うようにいかない部分があるのは、やむを得ない。
kurooさんの『面影画』の本ができたそうだ。
おそらく、この世で最も悲しくなる本だと思う。
地震も津波も、人知で回避できるものではなかったと思う。
そのような現実を前にして、われわれにできるのは、残された人々と思いを共有し、奪われた人々(や動物たち)のことを記憶し続けることだろう。
ここに描かれているのは、自分にとって未知の方々だが、私も、その方々の記憶を共有したいと思う。
皆さんもぜひ、どうぞ。
注文・お問い合わせは、同時代社まで。
SixApart社からMovableTypeのバージョンアップを促すメールが来ていたので、とりあえず、Ver.5.13にバージョンアップ。
この作業は、膨大な数のファイルをサーバーに送らねばならないので、たいへん時間がかかり、エラーになる可能性も高いので、気を使う。
プログラムは更新したが、これからかなり大量の修正作業をこなさねばならない。
鬼面山2山行記を追加。
写真は、道の駅つちゆから見た阿武隈山地のご来光と、雪洞内部。
阿武隈は、何度も出かけた思い出深い山域だ。
現状を考えると、ため息が出る。
雪洞は狭いので、快適な空間とは言えないが、暴風雪の中でも安全なシェルターである。
この雪洞は、寡雪のため奥行きが短いので、定員2人でT字型に作ってある。
今回は、バッテリートラブルのため、このくらいしか写真を撮ることができなかった。
やはり予備バッテリーは必要だ。
ということで、互換バッテリーを注文した。
早稲田大学法学部の「政治・経済」の入試問題に、「日の丸・君が代」をめぐる教員処分問題が題材としてとりあげられていたことに対し、東京都教育委員会が同学部の受験者数について異例の調査をしているらしい。
この件に関し、『産経』は、早大入試で偏向的出題というタイトルの記事を配信しており、記事の中で、「最高裁判例では起立しない教員への職務命令は合憲とされており、識者は「偏向的で不適切だ」と指摘している」あるいは「(早大の入試問題は)入学・卒業式での国旗掲揚、国歌斉唱の指導を義務付けた文部科学省の学習指導要領に明確に反する主張を展開した」と述べている。
最高裁判決がどうあれ、この問題が「日本」社会や教育の現状について考える上で、よい素材であることは間違いない。
こうした問題について深く考えることによって、受験生がこの「国」について各自なりの考えを持つことができるとすれば、社会科の入試問題として、なかなかよくできているといえる。
さて、『産経』に登場する「教育評論家」の「入試問題を通した洗脳教育」という口汚い言い草はともかく、東京都教育委員会までが干渉に乗り出そうという構えを見せる中、早稲田大学はどれだけ、「進取の精神」や「学の独立」を発揮できるだろうか。
早大教授だった津田左右吉は、「日本」古代史に関する研究内容が「不敬」にあたるとして「評論家」や文部省の攻撃を受け、一度は大学を去った。
津田を守ることのできなかった早稲田大学は、津田事件から、「学の独立」の意味についてどれだけ学んでいるだろうか。
1932年の滝川事件のとき、京都大学法学部の学生は、全員が退学届けを提出して闘ったという。
早大の現役学生諸君は、大学の根幹に関わる干渉に直面して、手をこまぬいていてよいのだろうか。
安達太良連峰・鬼面山から帰宅。
昨年同様、土湯峠やや西に雪洞を掘った。
この冬は、豪雪という印象だったが、安達太良の雪は昨年より少なく、いくらか掘り進むとすぐにネマガリタケのブッシュに突き当たった。
そのあたりは折込済みだったので、小さな鋸でブッシュを切りながら、どうにか泊まり穴を掘ることができた。
気象庁が公表している鷲倉温泉のデータによると、18日の最低気温は氷点下13.3度、最高気温は氷点下9.9度だった。
これだけ寒いと、雪洞とはいえ、かなり冷え込んだ。
一方、風はさすがに吹いていたものの、烈風というほどでなく、この山にしてはかなり穏やかな方だったと思う。
とはいえ、登山行動中の三日間、雪はずっと降り続いた。
行動中、デジカメのスイッチが何かのはずみで入ってしまい、バッテリー残量がなくなってしまったため、写真をほとんど撮ることができなかったのは残念だった。
ここ数年の中で今年は、2008年以来の長い冬になっている。
朝の冷え込みはさほどでないが、昼間の気温がちっとも上がらないため、冬越し野菜たちはまだ、動こうとしない。
もっとも、タマネギ・ニンニク・麦類などの根は、春を忘れていないはずだから、もう追肥を始めてやらなくてはならない。
そんなわけで、昨日は少し休みをもらって、主としてニンニクに追肥。
風のためにマルチが何度も吹っ飛んだりしていたので、ニンニクもタマネギも、やっとこさ生きてるといった感じだ。
明日から月曜日まで、安達太良山周辺へ業務山行。
期間を通して冬型の予想なので、安達太良名物の烈風を楽しめそうだ。
ヒノキ丸太の玉切りも、少しずつこなしている。
近所のホームセンターで、「じゃがいもバイキング」と称して、種芋のバラ売りをやっていた。
まとめて買うより割高ではあるが、キロ単位では売ってない品種があったので、「サッシー」と「シンシア」を購入。
バラ売りなので、程度のよい芋を選ぶこともできるので、ほかでもやってほしい。
本日の朝日新聞デジタルに、玄海町長の弟の会社、原発マネー9割分受注 11億円という記事がのっているが、これは、2011年7月12日に、当生活記で紹介した西日本新聞の記事とほぼ同じだ。
今日も、ヒノキ丸太運び。
いずれこれも、時間を作って割らねばならない。
『回想の秩父多摩』を再読するに際し、新たに感じたことを追記。
概略、以下のとおりだが、山の地名を呼ぶには、古くから地元民が使っていた地名を尊重すべきだという趣旨である。
まずは、仙元峠。
もう何度も書いたが、秩父山域では、ピークを「ドッケ(トッケ)」と呼ぶケースが多い。
国土地理院(旧陸地測量部)の係官が、トッケを「トウゲ(峠)」と表記してしまったケースが、仙元峠だろう。
仙元峠は、祠があり、仙元山(富士山)を望むことのできるピークのことなのである。
いわゆる本来のトウゲであれば、鞍部を意味しなければならないので、国土地理院は、仙元峠西の鞍部に、「仙元峠」を記入している。
しかし、仙元峠西の鞍部を越える峠道は、過去も現在も存在しないから、現在の二万五千図における「仙元峠」の記載は、誤りでなのある。
「仙元峠」の位置が誤ったまま定着することが危惧される。
次に、酉谷山東の小ピークである「小黒」について。
酉谷山は、秩父で「黒ドッケ」と呼称されていたようだ。この場合の「ドッケ」もピーク名である。
「黒ドッケ」のすぐわきにあってやや低い針葉樹のピークは、「黒ドッケ」すなわち「大黒(おおぐろ)」に対し「小黒(こぐろ)」と呼ばれた。
「小黒」に「おぐろ」とルビを振ったのは、山と渓谷社の『分県登山ガイド埼玉県』だと思う。
酉谷山が「大黒」だから、それより低い隣のピークが「小黒」なのである。
山渓の編集者は、酉谷山が秩父で「黒ドッケ」あるいは「大黒」と呼ばれていた事実を知らなかったのだろうが、ガイドブックに「小黒(おぐろ)」とルビを振られたために、埼玉県の山岳関係者の中にも、「小黒」を「おぐろ」と呼ぶ人が出てきた。
どこかではっきり訂正しないと、「小黒」は「おぐろ」になってしまう。
そうすると、酉谷山が「大黒(おおぐろ)」である事実が意味を失ってしまう。
三つ目に、滝川支流槙ノ沢のさらに支流である「八百谷(ハッピャクダニ)」およびその源頭にあたる「八百平(ハッピャクダイラ)」の読み方について。
やはり埼玉県の山岳関係者が、とある集まりにおいて、「ヤオダニ」「ヤオダイラ」を連呼するので、たいへん違和感を持った経験がある。
この本によれば、「ヤオダニ」という誤った読みは、かなり以前から存在したようだ。
しかしこれも、きちんと訂正されなければならない。
本書には論及されていないが、三峯神社から南へ登ったところのピークを「霧藻ヶ峰」と呼ぶことに対しても、違和感がある。
このピークは元来、地元民や修験者から「黒岩山」と呼ばれていたらしい。
ピーク南の鞍部である「お経平」を隔てるピークが「白岩山」なので、ちょうど対になった呼称ということになる。
このピークが霧藻ヶ峰になったのは、1933年にここを訪れた秩父宮(昭和天皇の弟)が命名したからだという。
いくら大日本帝国憲法下の皇族(当時11歳の子供である)とて、ちょっと通りすがったくらいで、地名を勝手に改変することが許されてよいのだろうか。
長らくこのピークは霧藻ヶ峰と呼ばれ続けてきたので、今さら「黒岩山」に戻すのも難しいと思われるが、とりあえず、異論だけは述べておく。
都県境にある標高1946メートルのジャンクションピークを芋木ノドッケと呼ぶか芋ノ木ドッケと呼ぶかについては、両論が併記されている。
日原ではこのピークを「ニョングラ」と呼んでいたらしいが、三峰では「芋ノ木ドッケ」ないし「芋木ノドッケ」と呼んでいたらしく、現在、二万五千図には「芋木ノドッケ」と記されているのだが、この問題については、静観したい。
さて、このジャンクションピークから酉谷山にかけての尾根は、「長沢背稜」と呼ばれている。
本書は、長沢谷の背になる山稜をそのように呼ぶならば、水松山から桂谷の頭までの区間を限って呼ばねばおかしいと主張している。
じつにもっともである。
ところが近年、仙元峠の頂上付近に、一帯の尾根をして「仙元背稜」と呼ぶ道標が新築された。
おそらく東京都の職員が、何かの説を根拠に(?)命名したものだろう。
このように、本来の呼称とは全く異なる、根拠の薄弱な地名が、定着してしまう事例が、ずいぶん多いことがわかる。
氷点下6.5度まで冷えたので、水道が凍ったが、この程度なら午前中に回復する。
氷点下7度とか8度というような冷え込みは、もう来ないと思われる。
一昨日、ヒノキの丸太を軽トラックに1台分いただいたので、今日は終日、薪作り。
腰が痛くなって、立ち居にも不自由するほどだったが、どうにか全部、切って割り終えた。
日が暮れてから、パン作り。
このところ、ロールパン型のパンを焼いている。
酵母は、日清スーパーカメリヤである。400グラムの粉(自家挽き小麦240+カメリヤスペシャル160)に6グラム使う。
今のところなんの問題もなく、うまくできている。
『身分差別社会の現実』の読書ノートを追加。
午前中は、パン作り。
今日は酵母を少なめに使ったが、できあがりは殆ど変わらなかった。
午後、ボイラー周りの屋根作り。材料が足りないため、途中までで終わり。
ボイラーは屋外に設置してあるのだが、庇の下とはいえ、風交じりの雨だと濡れるので、覆屋を作る。
こういうのは、桧丸太で作ることが多いのだが、燃焼物なので、単管パイプで骨組みを作った。
屋根は、トタンのナマコ板で葺くつもり。
ボイラーは、長府工産製CG-121SWという型番のだと思う。
調子はまずまずなのだが、使用には、多少のコツが要る。
今まで灯油ボイラーは、湯に浸かりながら、リモコンですべて浴室からコントロールできたのだが、薪を燃やすとなると、そんなわけにもいかない。
風呂がぬるいと、「ぬるいから薪をくべてくれ」と叫ばなければならないし、湯温が上がると下げるのは簡単でない。
風呂桶いっぱいのお湯をわかすのに必要な薪の量も、うまく調整しなければならない。
しかしまぁ、道具にコツがいらないということは、いわゆる「サルでも使える」ということになり、人にとっては、退化してることになるのだろうから、面倒かつコツの必要なくらいが、ちょうどよいのではないかと思う。
写真は、オバンドウ峠近くから見た両神山・八丁尾根。
九州電力玄海原発のある佐賀県玄海町の岸本英雄町長や町議が、2006年5月-10年10月の4年半の間に少なくとも16回、総額約2300万円の海外視察を行っていたという話である。
海外視察には、「観光地巡りを日程に組み込ん」であり、報告書は一応出すんだが、ウィキペディアのコピペでいいらしい。
原発を受け入れると、自分の会社に仕事が来るだけでなく、国や電力会社からくるカネで、しょっちゅう観光旅行ができるらしい。
原子力の安全に関する国の審議会などの委員について、原子力安全・保安院は、合わせて24人が電力会社から報酬を受けるなどしていたものの、審議に影響はなかったとする調査結果を発表したものの、委員の名前や金額、会社名などは明らかにせずという記事がまた出た。
「原子力の安全に関する国の審議会の委員については、中立性を確保するため、原子力安全・保安院が、委員を選ぶ前に電力会社などの利害関係者から報酬を受けて研究をしていないかなど自己申告する」ことになっているにもかかわらず、「電力会社や原子力関係のメーカーなどの依頼で、講演したり、研究活動をしたりした人は合わせて24人で、このうち12人は実際に報酬や謝礼を受け取って」いた。
この人々はは、原発メーカーや電力会社の共犯者である。
彼らが関わった審議会のレポートなど、信用するバカはいないし、国の審議会なんだから当然、何らかの報酬を食んでいるはずだが、それらの金額については、全部返してほしい。
この連中の総元締めである原子力安全・保安院が、「発表したのは人数だけで、委員の名前や金額、会社名などは「個人情報に当たる」として明らかにし」ないのは当然で、寄ってたかって、カネをやったり取ったりしてきた原子力村の暗部を、これ以上晒したくないのだろう。
「いくらカネをもらってもわたしゃ、公正な意見を述べることができます」と平然と言ってのける神経がそもそも、マトモではない。
冬型が戻り、朝の気温も氷点下5.2度と、平年並みに戻った。
とはいえ、冬型が定着することはなく、週明けにはまた、南岸低気圧が通るようだ。
季節は着実に春に向かっている。
来週末には、安達太良山周辺へ業務山行に行くのだが、天候がどうなるか、そろそろ気になるところだ。
冬型だと吹雪くので寒い。
低気圧が通って雨でも降ったら濡れて困ったことになる。
うまい具合に移動性高気圧にはまれば、冷え込みはするが、昼間は晴れるだろう。
『田中角栄の昭和』の読書ノートを追加。
「西上州の山」に、野栗峠・オバンドウ峠山行記を追加。
低気圧が列島南岸をトレースしていったので、久しぶりに雨が降った。
朝の気温も氷点下にならなかったが、今年に関して言えば、2月にこんな日は、たいへん珍しい。
写真は、野栗峠道の現況。
現在、この道を通る人は、ハンターか物好きなハイカーくらいだろう。
人の通らなくなった道を、動物はまだ、使っているようだ。
動物が通るだけでも、道形の保全に、多少は役立っている。
『宰相田中角栄の真実』と『帰ろう山古志へ』の読書ノートを追加。
東京電力福島第一原発事故後の原子力政策の基本方針(原子力政策大綱)を決めるため内閣府原子力委員会に設けられている会議の専門委員23人のうち、原子力が専門の大学教授3人全員が、2010年度までの5年間に原発関連の企業・団体から計1839万円の寄付を受けていたなどということが、どうして、今になってわかるのか、理解に苦しむ。
この人たちは、カネをもらっても「会議での発言は寄付に左右されない」などと言っているが、人から金をもらっておいて、カネをくれた相手に対し、「お前がやってることはとても危ない」などと、言えるわけがないだろう。
内閣府原子力委員会が言うことなど、信用するバカはいない。
明治17(1884)年9月30日のの夜に、群馬県神流川沿いの村々で、何者かの手によって、「借金のあるものは10月1日に野栗峠へ出よ。さもなくば焼き払う」などと記した「火札」が一斉に貼られた。
いうまでもなく、10月31日に武装蜂起する秩父困民党と連動した動きだった。
10月1日の野栗峠の集会にどれほどの人々が集まり、どんなことが話し合われ、何が決まったのかは、わかっていない。
また、秩父から誰かがオルグに訪れたかどうかも不明である。
同年5月に起きた群馬事件以降、上毛自由党がどのような組織活動を行なっていたかは、あまり明らかになっていないのだが、野栗峠における山林集会はおそらく、秩父におけるそれと同じく、いずれ武装蜂起に至る困民党の中核集団を形成する意味を持っていたのだろうと思われる。
ではなぜ、現在の中里村・上野村を包含する広大な民衆に呼びかけられた大衆集会の会場が、野栗峠なのか。
歩いてみることによって、何かがわかるかもしれないと思い、今日は、野栗-野栗峠-明家-オバンドウ峠-間物と歩いてきた。
上二つの写真は、野栗峠より手前にあった道標を兼ねた石仏と石塔である。
いずれもやや不鮮明ながら、「右 ちちぶ道 左 やまミち」と彫られている。
野栗峠は、秩父に至る峠だったのだということがわかる。
下は、野栗峠に立つ馬頭尊である。
優しげな表情の石仏である。
この馬頭尊の眼は、明治17年10月1日に、この前で起きた光景を見たはずである。
昨年末に建設再開が決まった八ツ場(やんば)ダム(群馬県長野原町)で、関連の工事や調査を受注した167法人のうち46法人に、国土交通省からの天下りが104人いたという報道が、今になって出てきた。
コバンザメと言うか、寄生虫がウヨウヨしているのである。
前回総選挙直後の2009年8月に、「民主党が公約を守る限り、八ツ場ダムと川辺川ダムは建設中止となる。新政権に過度の期待はしていないが、この約束は守ってほしい。」と書いたのだが、公約はみごとに反古にされ、寄生虫が正体をあらわしたというわけだ。
今朝は氷点下7.8度と、並の寒さだったが、週の後半にかけてこの冬の底を記録しそうである。
昨日、凍結により、自宅の水道管が破裂した。
すぐに修理してもらえたので、今のところ、特に問題ないのだが、明日から明後日にかけて、いくらか不安ではある。
1時間の休みをもらって早退し、薪作り。
今度設置したボイラーは、薪焚き兼用タイプだが、少々の薪で風呂を沸かすことができる。
薪の原料にする木は、自分の持ち山の木を使うこともなくはないが、ほとんどは貰い物である。
何も考えない人には、割った薪などただの「木片」でしかないだろうが、樹種により、割れ方や割りづらさも、さまざまだ。
頂いた木を割っていても、割った薪を火にくべていても、木をくれた人の顔が浮かぶ。
そして今、湯船に浸かっていても、薪にまつわる方々を思うことになる。
生産者の顔の見える食べ物であるべきだ、という話をよく聞くが、木を伐った方の顔の見えるお湯、という言い方を聞いたことはない。
いつまで薪割りを続けることができるか、わからないが、こういう暮らし方もあるのだと、認識を新たにした。
写真は、出勤前の自動車のフロントガラス。
氷の結晶が美しい。
もちろん、のんびり溶かしてる暇はないので、プラスチックのスクレーパーで削り落として、すぐに発進する。