終日、薪の積替えと農作業。
自然薯をようやく掘り終えた。
今年は、3うね半植えた。
毎年、この程度植えているが、今年は殊の外、掘るのに難儀した。
来年から、2うね程度に減らそうと思う。
自然薯の跡地で大根・人参などを作るために、耕耘。
ここの種まきは、お正月前後だ。
双葉状態のトンネルのニンジン潅水と除草。
ここ数年、歴史を学び直している中で、大いに反省しなければならない問題の一つは、「農業」もしくは「農民」という概念は、近代以降に捏造されたものではないかということである。
言うまでもなく、江戸時代に、「農民」という身分は存在しなかった。
存在したのは「百姓」だが、それは、「農業によって生活を成り立たせる人々」を意味していなかった。
事実、江戸時代に農山漁村で暮らしていた人々は、「農」を含むさまざまな生業(なりわい)によって暮らしていた。
「農」を主たる生業とする人々も存在したが、「百姓」とは「農」民のことだなどというのは、支配者が(軍役の算出上)便宜的に作り出した机上の空論でしかなかった。
壬申戸籍では、例えば、「平民 農」という記載方法がとられた。
ここには、商人・漁民・職人と「農」民を区別しようという意図が見える。
「農民」という概念の出発点はおそらく、このあたりにある。
近代以降、無数に存在した人の生業の中から、「農業」なる「業」を特別にピックアップして、あたかもそれが、産業の一つであるかのような論理操作が行われた。
最初は論理操作だったが、社会的分業の成立(というか創出)とともに、「農」を「業」とする人々が人為的に作り出された。
社会的分業とは、労働力配分の効率化のことだが、これなしに世界市場で勝ち抜くことのできる競争力を得ることはできなかった。
こうして、「農業」「農民」が成立した。
とはいえ、「農」の営みがすべて「農業」の概念に包摂されるわけではない。
「農」とは、生命を維持するために食べるものを自ら作り出すという人間としての宿命的な営みであり、生業とは次元を異にする。
社会的分業が広汎に成立した状況下にあって、「農」と無縁な人間の存在はあり得ないことではないが、それが一般化し、「農」が「業」として成立しなければならないかのような偏見は、新自由主義経済によるマインドコントロールではないか。
例えば自分のサイトにも、こんなふうに、「農民」という言葉を無批判に使っている。
このあたりは、早いうちに書き直さねばならない。
以上のようなことを、芋掘りしながら考えた。
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