ボイラーが壊れたため、当然、風呂には入れない。
幸い、仕事が休みなので、しばらくは温泉巡りをするつもり。
ということで、本日は、古寺探訪を兼ねて、別所温泉に行ってきた。
まずは、安楽寺・常楽寺にお参りした。
いずれも鎌倉時代に全盛を極めたお寺で、北条氏の保護を受けた。
その後も伽藍を存続させることができた背景には、地元土豪の経済力があるのだろう。
足元の凍りつく、寒い日ではあったが、重厚なお寺を見ることができ、行ってよかった。
写真は安楽寺。
ボイラーが壊れたため、当然、風呂には入れない。
幸い、仕事が休みなので、しばらくは温泉巡りをするつもり。
ということで、本日は、古寺探訪を兼ねて、別所温泉に行ってきた。
まずは、安楽寺・常楽寺にお参りした。
いずれも鎌倉時代に全盛を極めたお寺で、北条氏の保護を受けた。
その後も伽藍を存続させることができた背景には、地元土豪の経済力があるのだろう。
足元の凍りつく、寒い日ではあったが、重厚なお寺を見ることができ、行ってよかった。
写真は安楽寺。
関西への3日間の小旅行から帰宅。
出かける寸前に、自宅のボイラーが壊れた。
普通の灯油ボイラーだったのだが、通常の耐用年数は、とっくに過ぎていたので、これは納得せざるをえない。
業者を探して、一応、修理を依頼しようとしたが、部品を含め廃盤なので修理不能という話だった。
そうすると、ボイラーの全面交換という話になるのだが、時期が時期だけに、話がスムーズに進まない上、ボイラーメーカーの代理店網というのは、あまり融通が効かないらしく、年明け以降に改めて仕切りなおしということになった。
関西行きは、移動に実働2日かかるので、実質的な滞在は1日だけだった。
少し時間があったので、京阪河内森・JR河内磐船駅周辺を少し歩いた。
といってもほんの少し歩いただけで、獅子窟寺を見に行ったりする余裕はなかった。
写真は、河内磐船駅。
クロガネモチの実が鈴なりだ。
今日も終日、農作業。
自然薯の種芋を畑に埋蔵。
土に埋めたのち、わらをかぶせてブルーシートを掛けた。
昨日耕したところにウネを立てて、大根とニンジン・カブの種まき。
トンネルはこれで6本目だ。
自然薯の跡地は来年、大豆を作るつもりだから、大豆の種まきまでに、葉菜や根菜を作っておく。
菜っ葉のトンネルに灌水。
黄色ニンジン(イエロースティック)の片づけ。
このところ、朝の気温は連日、マイナス6度弱まで下がっている。
こうなると、凍った土はもう、とけない。
根が凍るとさすがに、秋野菜は枯れてしまう。
それどころか、収穫し遅れたカブなどは、ついぞ抜けなくなってしまう。
長靴を履いて凍った畑にいると、足の指先も凍りそうだ。
終日、薪の積替えと農作業。
自然薯をようやく掘り終えた。
今年は、3うね半植えた。
毎年、この程度植えているが、今年は殊の外、掘るのに難儀した。
来年から、2うね程度に減らそうと思う。
自然薯の跡地で大根・人参などを作るために、耕耘。
ここの種まきは、お正月前後だ。
双葉状態のトンネルのニンジン潅水と除草。
ここ数年、歴史を学び直している中で、大いに反省しなければならない問題の一つは、「農業」もしくは「農民」という概念は、近代以降に捏造されたものではないかということである。
言うまでもなく、江戸時代に、「農民」という身分は存在しなかった。
存在したのは「百姓」だが、それは、「農業によって生活を成り立たせる人々」を意味していなかった。
事実、江戸時代に農山漁村で暮らしていた人々は、「農」を含むさまざまな生業(なりわい)によって暮らしていた。
「農」を主たる生業とする人々も存在したが、「百姓」とは「農」民のことだなどというのは、支配者が(軍役の算出上)便宜的に作り出した机上の空論でしかなかった。
壬申戸籍では、例えば、「平民 農」という記載方法がとられた。
ここには、商人・漁民・職人と「農」民を区別しようという意図が見える。
「農民」という概念の出発点はおそらく、このあたりにある。
近代以降、無数に存在した人の生業の中から、「農業」なる「業」を特別にピックアップして、あたかもそれが、産業の一つであるかのような論理操作が行われた。
最初は論理操作だったが、社会的分業の成立(というか創出)とともに、「農」を「業」とする人々が人為的に作り出された。
社会的分業とは、労働力配分の効率化のことだが、これなしに世界市場で勝ち抜くことのできる競争力を得ることはできなかった。
こうして、「農業」「農民」が成立した。
とはいえ、「農」の営みがすべて「農業」の概念に包摂されるわけではない。
「農」とは、生命を維持するために食べるものを自ら作り出すという人間としての宿命的な営みであり、生業とは次元を異にする。
社会的分業が広汎に成立した状況下にあって、「農」と無縁な人間の存在はあり得ないことではないが、それが一般化し、「農」が「業」として成立しなければならないかのような偏見は、新自由主義経済によるマインドコントロールではないか。
例えば自分のサイトにも、こんなふうに、「農民」という言葉を無批判に使っている。
このあたりは、早いうちに書き直さねばならない。
以上のようなことを、芋掘りしながら考えた。
朝から、昨年作った薪の積み替え。
大量に薪を作り、保管し、使い続けるには、置き場所を確保しなければならない。
新しく割った薪は、そのままでは燃やせないから、1ないし2年は保管して、乾燥させる。
まる2年分の薪を置く場所はないから、とりあえず、1.5年分ほどの場所をローテーションしながら、積むのである。
これから作る薪は、来年使うためのものなので、それなりの場所を確保してやらなければならない。
お昼前から、畑に行って農作業。
まずは大量の枯れ草燃し。
これは、案外はかどった。
ウドとアスパラガスの地上部を刈り取り。
これは、刈り次第全部、燃やしてしまう。
白菜の片づけと、跡地の耕耘。
畑に残っていた白菜は、全て、漬けものにする。
トンネルのカブを第二次間引き。
本葉が出てきたので、あとは水を切らさないようにしてやれば、育っていくのではないかと思う。
自然薯掘りの続き。
これがひどく疲れたが、その分かなり、はかどった。
のこりあと、実働半日分くらいだ。
年内に終わるかどうか、微妙。
帰宅後、日没まで、薪作り。
明日朝の気温は、氷点下6度の予想が出ている。
年内はこのあたりが正念場とみえる。
写真は、畑の点景。
数日早いが、2011年の仕事は、22日をもって終了とさせてもらった。
今日はひさびさに家の仕事。
桑の大木をもらえる話があったので、燃料用にいただきに参上。
これでまたしばらく、薪作りにいそしむことになる。
その後、畑に行って農作業少々。
今日の木枯しで吹っ飛んだトンネルやマルチの修復。
トンネルに灌水。
今月初めにまいたニンジン・ミニチンゲンサイ・小松菜などが発芽していた。
順調に行けば、2月半ばくらいには菜っ葉を食べることができそうだ。
有間山山行記を追加。
先々週から風邪気味だったのだが、症状が一段落したのち、空咳が出るので、通院。
原因は特定できないが、とりあえず抗生物質を処方していただいた。
風邪が完治してないのに、氷点下7度の野外で寝たりしたのがまずかったのかも。
もっとも、仕事だから、休むわけにはいかないのである。
写真は、仙元峠付近の風景。
重厚なブナの森は健在だが、仙元峠のシンボルだった大ブナは、倒壊してしまった。
3年前のこの時期には、真っ二つに裂けた痛々しい姿ながら、まだ生きていたのだが。
若い人たちと、ときがわ町の巨木めぐり。
山入の大クスのまわりのウッドデッキが古くなって、立入禁止になっていたのはやや残念だった。
それぞれ、インパクトのある樹木なので、いつかまたこういう企画をやってみたい。
写真は引き続き、一杯水・三ツドッケ周辺の風景。
今年最後の業務山行で、例年のように奥多摩・一杯水に行ってきた。
土曜日の朝、浦山大日堂を歩き始めて、仙元峠へ。
仙元峠から水源林道を一杯水まで歩いて幕営した。
ここで泊まるのは5度目だが、テントを張ったのは初めてだった。
積雪はほとんどないとはいえ、冬の奥多摩はかなり冷える。
今朝の気温は、氷点下7度だった。
寒いのは、放射冷却が起きるからだから、朝の展望には恵まれる。
昨年は今ひとつだったが、今朝の富士山はきれいだった。
今日は、三ツドッケから蕎麦粒山、有間山と高度を下げていき、鳥首峠から冠岩に下山した。
今から22年前に、この逆コースを日帰りで歩いたことがあった。
その時にはひどかったスズタケのヤブが枯れ尽くし、すっきりしてはいた。
また、有間山の西側(浦山側)は大規模な造林中で、現状はハゲ山状態と、ずいぶん変わってしまっていた。
朝は軽く氷点下になるのだが、昨日入った南の空気が残っていた今日の昼間は暖かかった。
明日はしっかりした冬型なので、寒くなるだろう。
引き続き多忙中で、畑や家の仕事には手をつけることができない。
写真は、家人の土産の大滝飴。
素朴かつ、真っ当で爽やかな甘味がある。
甘いとはこのように爽やかな感覚だという、よい例である。
残念ながら、もう作られなくなってしまうと聞いた。
本日は、書籍とイベントのご案内。
12月15日(木)に所沢で、「山里の記憶・秩父の冬」と題する黒沢和義さんの講演会がある。
会場や時間など、詳細はリンク先参照。
12月18日(日)に皆野町のムクゲ自然公園で、『水になった村』(大西暢夫監督)の上映会。
ご存じの方も多いと思うが、岐阜県徳山村が廃村になったあともなお、そこで暮らしていた人々の記録である。
写真のパンフレットは、鎌倉おやじさんにいただいたものである。
カメラマンである大西氏が、この春から夏にかけて、東日本大震災の被災地を取材して、『岐阜新聞』に連載したものの抜き刷りである。
東北を歩く大西氏のまなざしは、徳山村を歩いたときと変わっていない。
人災でもあったこの震災だが、加害した者を声高に告発することもなく、政治の責任を叫ぶこともしない。
彼のレンズは、悲しみに暮れ、不安におののく人々の心に寄り添い、ひたすら共感する。
黒沢さんの「面影画」の世界と、重なる。
水曜日に気圧の谷が通りそうだ。
寒気の程度によっては降雪もあり得る。
このところ、朝の気温はコンスタントに氷点下を記録し続けているから、降れば雪になりそうな気がする。
最寄りの国道は、谷底近くを走っているから、霜や凍った水たまりは昼間でも溶けることはない。
ノーマルタイヤで走れる限界を過ぎたので、今日は2台分のタイヤの交換。
その後畑に行って、自然薯掘りの続き。
また当分、掘り終わりそうにない。
トンネルに灌水。
カブの第一次間引き。
写真は、青木村の阿鳥川神社の鳥居わきにあった大ケヤキ。
この神社は、しだれ桜のほうが有名なようだが、この奇木も、面白い。
このところ朝の気温が氷点下3ないし4度と、本格的な冬らしくなってきた。
昨夜は、瀬音・源流部会の忘年会だった。
いつものように、収穫物を大いに消費していただき、愉しいひと時を過ごすことができた。
今朝は、炭火パンと、陸稲餅を食べていただいた。
餅はとても美味しかった。
本格的に陸稲を作ったのは初めてだったが、課題もいくつか見つかった。
畑で田植えをしたことによって、生育が一時停止し、その後の成長に遅れが出た。
できれば直播のほうがよいが、鳥害対策を考えねばならない。場合によっては、寒冷紗に投資する必要があるかもしれない。
干害には強いとはいえ、土壌湿度が高いほうがよいのは言うまでもない。
また初夏から夏にかけて、雑草が跋扈する。
これらを解決するには、穴あきマルチを使うとよいかもしれない。
マルチの使用によって、防乾と防草・養分保持が一気に図れるのではないかと思われる。
たかがコメに、そんなに丁寧なことをする必要がなかろうと言われるかもしれないが、労働集約的なやり方が、日本の農作業の基本なのだと思っている。
写真は、乾燥ヤーコン。
室内でしばらく干したのち、ドライフルーツメーカーという機械で乾燥させた。
休みをもらって入川を散歩しに行こうとしたが、国道から少し入ったところで通行止めになっていた。
やむなく、小雨が降ってくるまで、農作業。
ミニチンゲン菜と小松菜をトンネルに種まき。
年内の種まきは、ほぼこれで終了か。
自然薯掘りの続き。
集中力がなくなると、どこかに傷をつけてしまう。
掘る前に、「慎重に掘るぞ」と気合を入れるのだが、大きな芋にうっかり傷をつけたりすると、がっくりだ。
その他、紫大根の片づけ。
三陸つぼみ菜のページを、約10年ぶりに更新。
久しぶりに農作業を少々。
トマト・ピーマン跡地に畝を立てて、マルチを敷き、チンゲン菜と小松菜予定地の準備。
種をもって行かなかったので、種まきはできなかった。
カブと人参に灌水。
ニンジンはまだ出ないが、寒い時期はいつもそうだ。
へたすると発芽に一ヶ月くらいはかかる。
自然薯掘り。
今年は自然薯掘りをサボっているので、まだまだ残っているのだが、重労働になるので、一度に10個くらいが限界。
大根の片づけ。
この時期以降、放置すると大根にスが入って、食味が著しく悪くなる。
大根もニンジンも、一度抜いて、別のところに埋め直せば、1月下旬くらいまで保存することができる。
今日は白い大根と赤い大根のみ処理した。
紫大根はまだいくらか残っている。
写真は、子檀嶺岳登山口近くから見た独鈷山方面。
遠くに、蓼科山が頭だけ出しているのがわかる。
山村に住む人が少なくなり、山林と田畑とのバッファゾーン(緩衝地帯)が消滅したことによって鹿や猿や猪が田畑に出没するようになったのは、事実である。
ここでは、バッファゾーンに、羊を放牧しているらしい。
害獣たちが姿を隠すことのできるヤブ地や潅木帯を羊の力で一掃することによって、害獣が近寄りがたくする試みである。
「バッファゾーン予定地を誰が提供するのか」「その人への補償をどうするのか」などの問題は多々あっただろうが、自治体が間に入ることによって、解決できたのかもしれない。
限界集落の悲哀をかこってばかりいても、何も進まない。
まして、旧態然たる人間関係にとらわれているだけでは、いたずらに時間を消費するだけである。
青木村の田畑は、当地に比べて、放棄されたところが少なく、現在もなお、耕作されているところが多い。
人口は既に4000人台になってはいるが、地域における暮らしは着実に根づいている感じた。
十観山の山頂近くには、ソーラー電源を使ったバイオトイレが設置されていた。
山を比較することに意味はない。
しかし、日本百名山とやらに入っており、毎日必ずおおぜいの登山者で賑わう当町の両神山には、小屋わきに設置された垂れ流しトイレしか、おかれていない。
郷土の山に対する姿勢が、ずいぶん異なるのである。
その落差も、感じさせる山行きだった。
十観山から下山した後、大法寺にお参りした。
国宝の三重塔をもつ、青木村の古刹である。
ちょうど7年前に子檀嶺岳に登った際にも、こちらに立ち寄った。
そのとき、お寺の石段下で、ご老人がわずかばかりの農作物を広げて、寒い中、大豆などを売っておられた。
7年前には、鞍掛大豆なども並べてあったが、緑色の大豆を買って帰ったと記憶する。
今回大法寺を再訪したら、寸分たがわぬ場所で、同じご老人が寒風の中、農作物を前に座っておられたので、驚いた。
またまた緑色の大豆を買ったのだが、「黒豆も買っていけ」というので、「自分の所では赤い大豆を作っているのだ」と言うと、「その豆を自分も作りたいから、今度来るときにはひとつかみ程の種大豆を持って来い」と言われた。
この次に大法寺を訪れるのがいつになるかわからないが、そのときには、忘れずに持って行こうと思う。
農作物の品種などというものは、こうやって広がり、その地に合わせて改良されていくものなのだろう。
朝は氷点下にはなるものの、冬型なのに昼間は南東風が吹いて、暖かな日になった。
明日はまた、ちょっと変則的な南岸低気圧が来るので、気温によっては、雪になるかも。
この時期には、今少し安定した冬型が続いてほしい。
写真は、十観山からの展望。
冬型天気図となり、晴れ予報だったので、運動不足解消を兼ねて、久しぶりに精米山行。
この春にいただいた古い精米機では、糯米の籾摺り・精米ができないのである。
となれば、佐久・上田周辺に出かけなくてはならない。
そんなわけで、長野県青木村の十観山を歩いてきた。
大休止を入れても往復2時間強の、軽い散歩だったが、西からの季節風はさすがに冷たかった。
広く伐開された東側はとても見晴らしがよく、近くの夫神山・独鈷山や中景の浅間連峰などが一望できた。
北アルプスのある西側も、カラマツの疎林なので、樹林越しの展望はよかったのだが、標高2800メートル内外より上部には部分的に雲がかかり、残念ながら、すべての山をはっきり視認することはできなかった。
写真は、青木村にある「宝暦義民の墓」から望んた十観山。
「宝暦義民の墓」とは、宝暦11(1761)年上田藩宝暦騒動の指導者として捕縛され、死罪となった百姓清水半平の墓である。
宝暦年間は、江戸時代民衆闘争の一つの画期で、飛騨で起きた郡上一揆などもほぼ同時期に起きている。
秩父郡小鹿野町では天明3(1783)に打ち壊しが起きているが、これもまた近い時期の一揆である。
糯米約9キログラムは、無事に精米してくることができた。
土曜日は、等圧線が水平に並ぶ、イレギュラーな冬型だったために、ひどく寒い雨が降った。
朝は氷点下でこそなかったものの、わずかではあるが、降雪を見た。この冬の初雪だった。
昨夜からは、二ツ玉低気圧によるしっかりした雨降り。
南風が入り、一転して、今日は暖かな雨だった。
午前中、この冬の初パン焼き。
今年はイーストを、日清スーパーカメリヤから白神こだま酵母に変えてみた。
こだまは、スーパーカメリヤよりずいぶん力が強い。
発酵させるのに使っていたオーブンレンジの皿が小さくなったので、今日は、二次発酵を二回に分けた。
こんなパン焼き容器を使ったのは初めてだったが、とてもうまくいった。
午後には雨があがったので、夕方前に畑に行って、ニンジンの種まき。
先週まいた小カブの芽が出ていた。