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【年月日】 | 1996年8月6日 |
【同行者】 | 2人 |
【タイム】 |
一本杉口(10:00)−姫神山(11:16-11:55) |
【地形図】 | 陸中南山形、渋民 |
この温泉、湯量も豊富で、もてなしもなかなかよく、宿代もリーズナブルだ。もっとも私は、温泉宿に関しては、風呂がいいとほかのことはあまり気にならなくなるたちだ。 翌日は来た道を戻ってふたたび岩手県へ。この日は姫神山に登って岩手山の大きさを実感して帰ろうと考えた。
姫神山もずいぶん前から登ってみたかった山だ。 しかし、啄木自身が姫神山をうたった作品はないような気がする。 二日前に山の絵見しが 今朝になりて にはかに恋しふるさとの山 こうして並べてみると、啄木の山を見る眼は、おおむね岩手山を見ていることが多い。今回渋民村を訪れてわかったのだが、啄木の生家周辺からは裏山にさえぎられて姫神山は見えないのだ。それに対し、岩手山は北上川の河岸段丘をはさんで、渋民村の真正面にそびえ立っているのである。「目になれし山にはあれど」が胸に落ちる。 もっとも彼は、高等小学校にあがってからは盛岡で学んでいるので、姫神山を見ないで育ったというわけではないが、彼の関心が山や川からほど遠いところにあったので、姫神山が少年啄木の視野にはいることはなかったのだろう。 上の中で、ひょっとして姫神山を詠んだ歌かもしれないのは、「かにかくに・・」だが、証拠はない。
啄木は生活と人間をうたった歌人で、宮沢賢治のように人間と自然をテーマにした詩人ではなかったから、山は見るもの、神の住まう処、そして自分を見守り叱責する存在だったのだろう。ちなみに賢治は岩手山に学生時代から教員時代までずいぶん通ったらしいが、啄木の岩手山登山は中学三年のとき一度きりらしい。 姫神山はずいぶん開けた山で、登山口は一本杉口、城内口、田代口、コワ坂口と四つあるらしい。今回は、コワ坂口にMTBをデポして一本杉口から登ることにした。 一本杉登山口からスギ林の中をしばらく行くと、ひときわ大きなスギの大木があって、そのかたわらから豊富な清水がわいている。これが一本杉清水で、岩手の名水なのだと、登山口でいっしょになった女性が教えてくれた。たしかに冷たくていい水だが、深山の自然林からわく水にはかなわないという感じがした。 ここからはずっと急登が続く。どこかで伐採作業をしているらしく、チェーンソーのエンジン音と木の倒れる音が聞こえていた。 はじめはアカマツ混じりの若いミズナラ林、一部にカラマツの植林帯を見るが、六合目あたりから太いミズナラがあらわれてきて、自然度の高さが感じられる。登山道はすべりやすそうな泥道だが、濡れていないので快適に登れる。 やがてダケカンバがまじり出すと尾根をはずれてトラバースになり、ひとつ右の尾根に移る。急登はちっともゆるまないが、急に森林限界を出たかと思うと、北上川流域の平野が眼下に広がっていた。
樹木もミヤマハンノキ、ミネカエデ、ナナカマドなど高山性の低木が多くなり、いかにも火山らしい巨石が累々としたところを通る。あたりの風情や見晴らしは千百メートル程度の低山とは思えない堂々たるものだ。巨石帯のすぐ上が山頂だった。 山行三日目とあってゆっくり登ってきたし、真夏にしてはずいぶん気温も低いので、少し風が吹くと寒いくらいで、じつに快適だ。よく晴れてはいるのだが、濃いもやがかかっていて、まわりの山々がよく見えないのはちょっと残念だった。 巨大な岩手山はぼんやりと見えていたが、深田久弥氏が『日本百名山』で、「私が一番ハッキリと早池峰の全容を眺めたのは姫神山の頂上からであった」と述べている早池峰山は見えなかった。 去りがたい山頂だが、今日中に埼玉へ戻らねばならない。来た道とは逆方向のコワ坂へと下る。このコースは地形図にも出ていないのだが、最近刈り払いもされたようだし、下りはじめがいくらか急なだけで、あとはずっと緩傾斜なので、下山ルートにはもってこいだ。 一本杉コースとちがってこっちはブナの木が多い。しかし、傾斜がゆるんでほぼ平坦になると、やはりミズナラが多くなる。感じのよい林だが、ササが多いのでキノコは望めそうにない。 間伐予定のプレートのあるところを過ぎると植林帯。コワ坂登山口までは40分、さらにMTBで一本杉登山口まで五分ほどだった。 |