ガスと花粉
−綿向山−
【年月日】 |
2024年3月16日 |
【同行者】 |
単独 |
【タイム】 |
御幸橋駐車場(8:04)−ヒミズ谷出合小屋(8:28)−五合目小屋(9:33)−行者コバ(9:50)
−綿向山(10:18-11:08)−御幸橋駐車場(12:45)
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【地形図】 |
日野東部 ルート地図(マウスホイールで縮小・拡大可)
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土山インターからしばし走って、御幸橋駐車場。
登山者がこんなに多いのか。
これでは山頂あたりはどんな状態なんだろう。
しばらく車道を行く。
すぐわきの西明寺川は三面護岸で、雪シロが入っているのに、惨めな流れ。
やや上流の自然な流れは、なかなかの美渓だった。
車道の終点にヒミズ谷出合小屋。
ここから登山道になる。
ほぼずっとスギ林。
大きくジグザグを切っていくので、急斜面だが歩くぶんには傾斜が少ない。
変化に乏しい植林地を行く。
あざみ小屋という建物は、避難小屋でなくあずまや。
五合目小屋の中は見なかったが、壁があるので、いざというときには泊まれるかも知れない。
五合目小屋から長いトラバースで行者コバ。
役行者と蔵王権現らしき銅像が建っているのだが、どちらもいま風のリアルな表情をしているので、修験道のモニュメントとしては、ちょっと違和感がある。
スギ・ヒノキ林からブナ林になって、ようやくホッとするところ。
ここから冬季限定ルートと表示のある直登ルートに入る。
傾斜はさほどでないが、腐れ雪が溶けてぬかるみになっていて、歩きにくかった。
登山者の多くはアイゼンやチェーンスパイクをはいていたが、ぬかるみでは役に立たなかっただろう。
竜王山からの道を合わせるとまもなく、山頂。
シロヤシオかと思われる灌木がいい感じだった。
登山者がたくさん憩っていた。
いつものように、まずはストーブに点火しようとしたら、ごく微弱な火力しか出ない。
ガス漏れかと思って接続を確認し、再点火したが、状態は改善しなかった。
これでは食事を作ることができない。
登る途中では強い風が吹いていたが、山頂は比較的穏やかで、さほど寒くなかったので、お湯が湧くのを気長に待つことにした。
コーヒー用のお湯は湧いたが、ラーメン水は沸騰にまで至らなかった。
待っていても沸騰するとは思えなかったので、かなり熱くなったところでラーメンを入れて、なんとか食べることができた。
ガスというか、花粉と水蒸気の混合気が覆っていたため、最初まったく展望がなかったが、だんだん晴れてきて、雨乞岳や鎌ヶ岳がはっきり見えるようになった。
雨乞岳が目の前なので、御在所岳はたぶん、見えていない。
鈴鹿南部の山々も見え始めたが、知らない山ばかりだった。
小一時間ほどの大休止になったが、下山開始。
急降下がないので、下りはとてもラクだった。
西明寺へお礼参りしたあと、日野商人館を見学に行った。
お雛様の展示の片付けをしている最中だということだったが、見学はさせてもらえた。
展示によると、秩父に来た最初の日野商人は、1749(寛延2)年の中在寺村の矢尾喜兵衛(枡屋利兵衛)らしい。彼は酒造・呉服・雑貨商だった。
それ以前に、1712(正徳2)年に武州下吉田に、粟屋町の矢野新右衛門(日野屋五郎右衛門)が醤油醸造業を営んでいる。この下吉田は秩父の下吉田村かも知れない。
1751年以降、清水屋長兵衛(酒造業)・井筒屋嘉兵衛(酒造業)・和泉屋清左衛門(酒造業)が秩父に来ている。
この三人のうち、和泉屋はごく最近まで大きな店舗を構えていた。
1758(宝暦8)年に、中在寺村の矢尾喜兵衛が再び出店している。この喜兵衛の屋号は俵屋喜右衛門なので、先代と同一人物かどうかはわからない。
1796(寛政8)年の矢尾喜兵衛(中在寺村)は再び出店している。彼の屋号は日野屋利八だが、上記と別人物だろう。
1833(天保3)年にも酒造業の矢尾喜兵衛(中在寺村)が秩父に来た。大坂屋五兵衛である。
1842(天保13)年の粟屋町の矢野新右衛門(和泉屋仙次郎)が酒造業者として野上に来る。
同時期に粟屋町の矢野新右衛門(日野屋新太郎)が酒造業者として大宮に来ているのだが、この大宮が大宮郷かどうかは不詳。
1862(文久元)年には鎌掛村の岡幸八(和泉屋)が秩父に出店(酒造・呉服・荒物)。
明治以降も出店は続く。
1890(明治23)年に、石原村の杉村佐吉が下吉田に出店(荒物・雑貨販売)。
1927(昭和2)年に小谷村の大澤茂三郎が小鹿野に出店(呉服・太物販売)。
ざっと見た限りでも、日野商人が秩父でに根づいて商いを続けてきたことが理解できた。
日野小学校の庭には、身体一つで商いの旅に出る日野商人の銅像が建てられていた。
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