日本近代化の功罪を考える
−備前楯山−

【年月日】

1996年4月3日
【同行者】 単独
【タイム】

銀山平(11:00)−舟石峠(11:26)−備前楯山(11:58)
−舟石峠(12:50)−銀山平(13:27)

【地形図】 足尾

備前楯山から見た男体山

 備前楯山という変わった名前の由来は、参考書によれば、「一説に昔は黒岩山と呼んでいたが、1610(慶長15)年、備前国(岡山県)から移住した治部と内蔵が道の露頭を発見し、日光座禅院に報告した。座主は二人の功を記念して備前楯山と改め、産銅を幕府に献上したという。楯とは鉱脈の露頭をいう」(布川了『田中正造と足尾鉱毒事件を歩く』随想舎)とのことだ。

 足尾銅山の鉱脈はすべてこの山の地中に存在した。
 現在の国道122号から見ても、一帯は荒涼とした死の山だ。
 かつての渡良瀬川を生き物の住めない死の川に変え、桐生、足利、太田、佐野など流域の田畑を不毛の地へと化し、谷中を廃村に追い込むという近代史上の一大悲劇の根源が備前楯山にあったのだ。

 国民宿舎かじか荘のそばに自動車をとめ、舟石林道を歩き始めた。
 林道入口にはゲートはなく、自動車の通行はフリーのようだったが、造成に際して相当の切り土をおこなったらしく、吹きつけ工事をしていないところの山肌が醜く露出しており、小さな石がたくさん落ちていた。

 この道路は、現在は林道だが、「林産・観光開発や山林保全と足尾周回道路」として町道への昇格が予定されているらしい。
 鉱毒や煙害で一世紀にわたって痛めつけられてきた備前楯山は、これから「林産・観光開発」の対象になるのだ。

 天気は快晴でほとんど雲もないが、冬型が強いらしく、風の花が飛んでいた。
 道ばたに古い石垣が見えてくると、舟石の集落あと。
 そこには、集落名の由来となった舟の形をした石と説明板、あといくつかの石造遺物があった。

 それらによると、明治初年、この一帯には数戸の人家があり、イワナの多い沢沿いにあったため魚の沢と呼ばれていた。
 明治十九年には花輪村の栗原猪之太が入植し畑を開いた。
 栗原の屋敷跡には「土(うぶすな)神社」という石碑と石祠、「赤心霊神」「水神社」という小さな石碑が建てられていた。

 道路の左手には、古い石垣が何段にも築かれている。
 これは、最盛期の1918年には47戸をかぞえた舟石の人家の痕跡で、ここに住む人がいなくなったのは1954年だそうだ。
 「舟石」の集落名は明治30年代に古河市兵衛が命名したものである。

 そこから舟石峠まではすぐで、峠周辺には広い駐車スペースや「鳥獣観察所」という奇妙な名前のあずまやもあった。

 峠からは山道となるが、随所にりっぱに道標が建てられているばかりか、丸太による階段などが完備されており、まるで公園の中を歩いているようでちょっと拍子抜けしてしまう。
 それでも何頭かのシカが走り回っていたくらいで、山そのものは静かだ。

 峠からしばらくはアカマツ混じりの自然林だ。  『田中正造と足尾鉱毒事件を歩く』にのっている「煙害区域図」によれば、このあたりは「裸地」(鉱煙濃厚にして植物生育不能)と「激害地」(森林経営不可能、耐煙樹種植栽)の境界にあたるようだが、50年生くらいだろうか、かなり太いミズナラも何本かあった。

 その先もずっと自然林が続き、コガラの鳴く声も聞こえてきて、かつての死の山とは思えない。
 リョウブの幹にはシカの食害らしき傷が多い。

 峠から山頂までは30分ほどのゆるい登りだった。
 備前楯山の頂上に出ると、まるで月面のような荒れ果てた世界の向こうに男体山の巨大な姿があった。

 南側以外はさえぎるもののない大展望。
 袈裟丸連峰は全山そろっており、庚申山も近く見えた。
 皇海山は庚申山とオロ山(1822メートル峰)の間から顔だけ。
 沢入山(1704メートル峰)と中倉山の中景の向こうにはシゲト山、大平山、社山、半月山の稜線が連なるが、社山の南面はかなりひどく煙害に侵されている。  薬師岳・地蔵岳(鹿沼町と足尾町の境界線上のピーク、粕尾峠近くの地蔵岳とは別)から横根山にかけての尾根はボサと植林におおわれたヤブ尾根だが、目の前の荒涼とした光景にくらべればずいぶん暖かみがある感じ。

 一度見たら忘れられない風景を前に大休止。
 これだけの山林破壊がなぜ許されたのだろう。
 とても考えられないことだ。
 山と川と人間を犠牲にして何が得られたのだろう。

 西から来る風がとても冷たい。
 男体山に雪雲がかかったりとれたりしていた。
 煙害ゆえの大展望をながめながらコーヒーをすする。

 帰りに舟石峠の駐車スペースから備前楯山を見あげると、とても形のよい、りっぱな山だった。