重厚な山城
- 大築城山 -

【年月日】

2023年1月13日
【同行者】 単独
【タイム】

駐車地(11:46)−大築城山(12:53-13:27)−駐車地(14:52)

【地形図】 安戸 武蔵小川 正丸峠 越生 ルート地図 (マウスホイールで拡大・縮小)

 麦原の集落付近に駐車スペースが見当たらなかったので、少し手前の広くなったところに自動車をとめた。

住吉神社
空堀

 まずは住吉神社にお参り。

 集落の鎮守だが、かつては城主の氏神だっのだろう。
 こちらの獅子舞は両神村から伝わったという説明板があった。

 少し離れた集落上部への道を行き、道標に従って途中から大築城への道に入る。
 支尾根は緩やかで歩きやすいが、植林地がずっと続く。

 すぐに西行杉。
 樹齢100年程度かと思われる枯れた杉が立っていた。
 これを西行に結びつけるのは、チト苦しい。

 主稜線に登りつけば、大附との分岐。
 分岐を見ると、また来てみたくなる。
 ここは城山方面へ向かう。

 道は尾根を忠実に登るのでなく、うまく巻いていくので、ちっとも疲れないが、植林が続いてずっと暗い。
 これが雑木林なら気分もずいぶん違うのだが。

 小築山は単なるピークで、頂上も曲輪だったようには見えない。
 ところが、鞍部から大築城址にかけては立派な曲輪・土塁・空堀が続いて、ここがかなり堅固な山城だったことがわかる。

 北側が伐開された大築城の本曲輪で大休止。
 弓立山や慈光寺の山が見える。

 ここは、松山城主の上田朝直が慈光寺を焼き討ちするために築いたと『新編武蔵風土記稿』にあるらしく、現地説明・書籍・ネット上すべての説明がその通り説明している。

 しかし、

・なぜ慈光寺が焼かれねばならなかったのか。
・慈光寺と大築城はけっこう離れているのだが、焼き討ちすると決まってるならもっと現場に近いほうがいいのではないか。
・焼き討ちするための拠点なら、何段もの立派な曲輪や空堀を構える必要はなかったのではないか。

等々に関する説明はどこにもない。

 そもそも『新編武蔵風土記稿』は、大築城が廃されてから二百数十年後に編纂されたものであり、おそらくは地元民からの聞き取りによって慈光寺焼討説を記録したものだろう。
 そんなことを考えた。

 最初はもっと小さな周回を考えていたのだが、猿岩峠から先にもいい道が続いていたので、直進。
 硯水(水なし)手前の分岐も直進して、トラバース道を行ってみた。

 広い道はグリーンライン支線まで続いているかもしれないが、ほどほどのところにあった分岐を左折して、下山した。
 途中、盛大に崩壊したところもあったが、特に問題なかった。

 麦原集落には、農作業その他、なにかの作業をしている人の姿があって、好ましかった。