今回は、上大満バス停が出発点。
霧雨もようの道路を龍ヶ谷(たつがや)川に沿って、、龍穏寺方向に向かう。
30分ほどで覆屋のかかった石地蔵の先で、「万人造之」と彫られた台座に石仏が鎮座している。
小さな山門、ついで巨大な山門をくぐる。
境内には、由緒書きが二つ建てられているが、埼玉県が建てたのより、64世住職が記した方が詳しい。
それによると、元来、修験道場だったのだが、永享2(1430)年に曹洞宗の禅寺として再建された。
一度荒廃したが、太田道灌によって再興され、江戸時代には100石の朱印地を与えられて、それなりに繁栄した。
明治に入って廃仏毀釈によって再び衰退し、大正期に堂宇が焼失して存亡の危機に立たされたが、現在は落ち着きを取り戻しつつあるということだ。
武士や幕府の保護によって維持されてきた寺院だから、経済基盤を奪われることは致命的だったと思われる。
本堂は新しそうだが、山門と経蔵は古いままなので、かつての繁栄を偲ぶことができる。
また左手の山裾には、太田道灌の墓だという五輪塔や石像墓石があり、近くには歴代住職の墓石が並んでいた。
龍穏寺を拝観した後、車道をさらに奥に向かう。
人家のわきに山ノ神を見ると、右に林道が分岐する。
地形図にのっている破線路は消滅したようなので、この道に入って登っていく。
林道の先にも踏みあとは続いていたが、山の中の柚子畑をトラバースしていたので、尾根に向かって柚子畑の中を急登してみた。
地形図には表示されていないが、このあたりの南側斜面には尾根近くまで柚子畑が広がっている。
柚子畑が切れるとヤブになり、切れ切れの踏みあとやけもの道を拾いながら行くと、登山道に出た。
整備された登山道をしばらくで、三叉路。
その先、三角点の手前から南側のトラバースになる。
三角点には、羽賀山という道標がついていた。ブナ峠から日向根にいく尾根の上にも羽賀山という三角点ピークがあるが、同じような山名が近接しているのは、どういうわけだろうか。
あじさい山公園への分岐を分けるとちょっとした展望台があって、すぐに車道。
この道は、龍穏寺奥の梅本集落から続いている林道だ。
この先は、林道を出たり入ったりしながら行く。
野末張(のすばり)見晴台というところもあるのだが、この日はなにも見えなかった。
林道が尾根から離れるところにブル道があったので、そちらに入り、さらに峠道らしき道が分かれるところで登山道に入るがこの道は飯盛峠には行かず、飯盛峠より一つ南東の峠に行ってしまう。
峠から車道を行くのも何なので、尾根を急登してピークに登ってみると、三角点こそないが、飯盛山・越生町最高点という表示があった。
飯盛山から飯盛峠に下り、ゆるく登り返すと、電波施設のある三角点ピーク。
こちらにも、飯盛山という道標が建てられていた。
ピークから直接下る踏みあとは見あたらなかったので、ブナ峠方面へ少し下り、いったんグリーンラインに出てから戻って下降点を探す。
このあたりでようやく晴れてきて、武甲山や堂平山が見えてきた。
下降点から下ろうとすると、すぐわきに馬頭尊とおぼしき石仏の道標があった。
左面には「此方 ぢかうじ ちちぶ みち」。
右面には、「此方 太加山 川越 みち 文化三丙寅年三月吉日」とある。
あと二基の石柱は、光の関係でよく読めなかった。
ここからはひたすら下るだけでと思っていたら、途中にイロハモミジと思われるカエデの巨木があった。
主幹にはサルノコシカケがたくさん出ていて満身創痍だが、まだ生命は保っていた。
にぎやかなヤブコウジ
| 久呂須の大日如来?
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柏木の集落が近づくと、セコ道と公道が入り乱れるが、とりあえずどんどん下っていけばよい。
車道に出てから駅まで小1時間かかるのだが、神社や石造物がたくさんあるので、ちっとも飽きずに歩くことができた。
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