ブナ峠を越えて大椚へ

【年月日】

1991年11月17日
【同行者】 単独
【タイム】

タイム不明

【地形図】 正丸峠 安戸

 朝からやや雲の多い日曜日、ブナ峠を越えてみようと9時過ぎに家を出た。

 正丸駅から正丸トンネルの方に向かう。
 前方にトンネルの手前の道路標識が見えたところで右上に登る畑のなかの道に入る。
 すぐ上の家の庭で何かしていた人に北川の岩井沢集落への道をきくと、昔は草を刈ったものだが最近は放ったらかしだと言いながら道を教えてくれた。

 教わったとおりに行くと、上の家にいた老婆からいきなり「かてえかやらけえかみてくれ!」とどなられた。
 よく理解できないので立ち止まると、老婆は降りてきてこんにゃく玉を臼ですったのだが固いかどうか息子に見てもらおうと思っていたところへ息子に似た私が通りかかったので思わずどなってしまったのだという。
 誰も通ることのない道なのでいろいろな道具が広げてあるのをひどく恐縮するのでかえって申し訳ないような気になってしまった。

 その先の家の軒先を通って墓地の横から工事中の林道に出、小沢を渡って右にカーブするところから山道に入る。
 しばらくはスギ林のなか、ほとんど水のない沢に沿っていくがすぐにジグザグの登りとなり、すぐに鞍部。
 鞍部から左にいくとツツジ山とあった。

 地図によればそこからまっすぐ下っていくのだが、道は見えない。
 そこで強引に下っていくとすぐに林道で、すぐ下が民家だった。
 民家の下からは林道となり、ほどなく北川の往還にとびだした。

 ひとつ南の南川や坂元は、正丸峠、サッキョ峠、虚空蔵峠によって秩父盆地につながっていくが、北川はブナ峠によって椚平、そしておそらくは刈場坂峠のひとつ東の峠によって大野と、現在は都幾川村に含まれる外秩父の村と結ばれていたのである。

 車道をしばらく行くと、岩井沢の集落につき、道の左に地名の由来となったものか、ちょっとした岩屋があるところの前を通る。
 岩屋には石碑や石仏が並んでおり、「奉納大乗妙典六十六部供養塔」というのと「辯在天」という石碑が読めた。
 そこから未舗装の林道がふたつに分岐する。
 かなり古くなった「ぶな峠」という道標にしたがって右の道に入り、すこし行ったところで小休止とした。

 その後も林道歩きがつづく。
 林道が大きくカーブするところでは、旧道とおぼしき踏みあとに入ってみるが、すべて途中で消えてしまい、結局沢身に降りて登りなおす。
 道が二手に分かれるところでは右をとり、さらに林道を行く。
 この左の道も地図にない林道だ。
 さらにもう一度二股となる。

 ここは地図だと山道になっているが、相変わらず林道が続いている。
 再び右をとり、すこし行くと左の支尾根に登っていく道がある。
 これが本当のブナ峠道だ。

 その証拠に、山道に入ってすぐ左に寛政九年に建てられた立派な馬頭尊がある。
 これには、正面に「寛政九丁巳年 馬頭観世音菩薩 十一月吉日」、左側に「秩父郡北川村岩井澤願主 善左ヱ門 松之助 久治郎 豊八 幸八」、右側に「右ぢかうじミち」とある。
 ブナ峠道も生活の道だったのである。

 さらに行くと、左が美しい雑木の黄葉となるところを過ぎる。
 ここまでずっと植林の中ばかりだったので、雑木が美しい。
 クリタケがないかとあたりを見回したがなかった。

 その先、左の支尾根に取りつく道と斜面を巻いていく道とに分かれるところにくるが、そこは左をとる。
 すると、そこにも馬頭尊があった。
 ここのはやや新しい感じだったが、それでも「馬頭観世音 子ノごんげんミち 文政十一丑年三月吉日」とあり、かなり古いものだということがわかる。
 これを建てたのは「秩父郡北川村藤原柏木講中」であり、右側には「左りぢかう山右於ごせミち」とあった。

 「ぢかう山」の読みにはやや自信がない。
 ともあれ、そこからはグリーンラインを走る自動車やオートバイの音が聞こえ、ほどなくブナ峠に着いた。ちょうど十二時だった。

 峠のかたわらには、「山毛欅峠波郷の碑」なる石柱が立っており、その上には波郷の句碑がある。

 ここにもツツジ山まで一・八キロの道標がある。

 ブナ峠からは雑木の尾根をのんびり歩けると期待していたのだが、ここも林道となっていた。
 やむなくゲートの横から林道に入る。
 ときどき尾根の上にあがってみるが、踏みあとはところどころはっきりせず、結局林道におりてしまう。
 どんどん行くと、林道ツーリングをしているらしいオートバイの一行が休んでいるところに着いた。
 ここは平松といい、向尾根集落と日向根集落との分岐である。
 ここは日向根へ向かう左の林道に入る。

 20分ほど行くと、大野と奥畑の分岐にくる。このあたり、仕事道と林道とが複雑に入り組んでおり、地図上の道はほとんど意味をなしていない。
 大野方面にすこし登り、鞍部から右に登る山道に入ってみる。
 山道はピークを左から時計まわりに巻いているように見えたが、ツガの大木が目立つあたりで消滅。
 やむなく強引にピークに登ってみると、かすかな踏みあとがあった。

 その道もその先で消えたので、一度戻り、別の尾根を行くと、今度はしっかりした道があった。しばらく行くと細長い尾根の上となり、これが新棚山かと思ってよく見ると、都幾川村が埋設した二級基準点があった。
 そこで二度目の昼食とする。

 その先、尾根にはまともな道がなさそうなので、地図どおりに行こうという気がなくなり、鞍部から東に下る道を行くと、すぐに人家に出た。
 その下の道路に出てからわざわざ止まってくれた自動車の人に聞くと、そこはまだ日向根集落の一部であるという話だった。

 しばらく下ると椚平のバス停だったが、一日1本のバスの時間にはまだずいぶんあったので、さらに下り、西川原というところまで出てバスを待った。
 ここからは一日5本のバスが出ているのである。
 西平でバスを乗り換え、八高線の明覚駅に出て東飯能を回って帰り着いたのは、6時過ぎだった。