芦ヶ久保を11時に出発。
大野峠への登り口から左の赤谷の集落に入っていく。
おおむねスギとヒノキの植林だが、登山者もおらず、のんびり歩く。
二番目の支流を渡ると道端に、古い馬頭尊。
安永7年の年号がはっきりと読め、この道が古い峠道だということがわかる。
それを過ぎると、沢の水流は細くなり、いよいよ登りになる。
前方が峠らしく明るくなっているところで、この沢を二度渡る。
ここが最後の水場だ。
沢のつめだけに、急登になるが、ジグザグを切って登っていくと、まもなくグリーンラインの大野峠に飛び出す。
そこからは、車道ではなく、丸山の方に階段を登っていく。
すぐに、あずまやの立つピーク。
白石峠方面と丸山方面とに分かれるT字路を左に曲がると、荒れた階段の下りとなり、車道に出る。
車道はすぐに大きくカーブするので、ガードレールを乗り越え、二度ほどヤブをこぐ。
そして再び車道に出たところが高篠峠。
ここには、昭和初年に大椚村青年団によって建てられた石の道標。
南面には「←秩父郡高篠村(秩父札所一番)ヲ経テ秩父町方面二至ル」「→本村大字大野ヲ経テ比企郡平村二至ル」とあり、西面には「←秩父郡槻川村大字白石ニ至ル」「→秩父郡芦ヶ久保村ヲ経テ秩父町方面二至ル」、東面には「昭和八年七月建之 大椚村青年団」とあった。
ここからは、完全に山道が破壊されていて、車道歩きとなる。白石峠までは20分ほどであった。
剣ヶ峯・堂平山近道という指導標に従って再び広い山道に入ると、ひと登りで電波塔の建つ剣ヶ峯。
展望はすこぶるよく、武甲山や奥多摩北部の山が、今までとはやや異なったアングルから眺められた。
西から北にかけてもよく見えるが、この日は雲のため御荷鉾あたりまでしか見えなかった。
山頂のわきには大椚村大野の岩田保十栄長という人が大正六年十月十日に建てた「摩利支天 剣峯大神 大山祗命」と彫られた石塔があるが、かつての信仰の山の面影は全くない。
そこから階段を下り、いったん道路に出て、また左の山道から次のピークにのぼる。
微小地震観測所という荒れた感じの建物のあるピークを下り、いよいよ堂平山の登り。
道のそばに昭和43年の文化の日に大椚生産森林組合が建てた大きな「明治百年記念碑」がある。
どういうイニシアティブがこのようなものを建てさせたのだろうか。
そこをゆっくり登っていくと、ほどなく天文台の建物がある堂平山に着いた。
ここは山の上に建物があるので、山頂ははっきりしない。
休む雰囲気もないところなので天文台の敷地をつっきり、七重峠へと下る。
七重峠におりたつと、目の前に笠山の山体。
七重峠からは、普通の山道になる。
笠山の山頂からは、官ノ倉山の尾根がすぐ下に見え、その向こうの平野がよく見えた。
そこから東へ少し下り、登り返したところが笠山神社だが、展望はなく、神社にも落書がしてあって荒れた感じ。
神社からは、すぐ横の危なっかしい石段を下る。
あとはジグザグにどんどん高度を下げていくと、途中の雑木林でマンサクの花が満開になっているのを見た。
これは、なかなかすばらしいものだった。
あとは、小川町の駅まで2時間の車道歩きとなった。
しかし、このあたりの耕地ではウメが咲いており、いろいろな石造物などもあって、さほど飽きなかった。