長野道で松本平に入ると快晴。
常念さんがみごとに見えていてテンションが上がる。
光城山登山口から自転車を乗り出して、長峰山登山口まで走ったら、カメラを忘れてきたのに気がついて、光城山登山口までとりに戻った。
時間と体力の多大なるロスだったが、二度目は双体道祖神や蔵王権現の石塔がある展望台などを見ながら行ったので、得るものはあった。
常念さんを見ていたらちょうど、目の下を大糸線が走った。
改めて長峰山に取り付く。
まぁまぁ急登だが、ジグザグを切っていくので苦しくない。
いたるところで展望が開けるので、樹間を物色する必要はない。
オケラが少しでていたが、やせてるので摘まない。
アカマツを大量に切り捨ててあるのだが、なにか意図があるのかも知れない。
ジグザグが終わると傾斜が緩み、穏やかな登りとなる。
明るい尾根の上だが、花はあまりない。
と思ったら、水仙やムズカリなど、園芸植物が咲いていて、不審である。
こういうのはやめてほしい。
車道を渡ると山頂公園の一角で、芝生が広く敷かれて、当然ながら好展望。
山頂の遊戯施設周辺にはおおぜいの人がいたので、手前のあずま屋で大休止。
後立山から鍋冠山まで、飛騨山脈が無傷で見えている。
槍・穂は常念山脈のため見えない。
爺・鹿島槍・五竜の三山と蓮華岳は真っ白だ。
餓鬼岳は純白というほどでもなくて、有明山は真っ黒い。
常念岳はやはりずば抜けて高く、その左には蝶ヶ岳が小さくのぞいていた。
蝶を見ると、年少の友人たちと行った18年前の夏を思い出す。
お金がなくて鈍行で行くから朝5時に出ても中房温泉に着くのはお昼すぎだった。
合戦尾根の急登を見ただけで心の折れた何人かは登らないで帰ったが、残りのメンバーは翌朝から元気に登り、10時間かけて大天井岳のテント場へ。
次の日、お花畑の道を常念小屋までは順調だったが、常念岳への2時間弱の急登で体力をひどく奪われた。
蝶槍あたりで最も歳下の仲間が弱音を吐き始めた。
やや年長の少年が「苦しいのはお前だけじゃないんだ。みんな苦しいんだ。でも頑張って登るんだ」と叱咤した。
それに励まされてしばし頑張ったが、それまで黙々と歩いていた別の少年が「もう無理だ。もう歩けない」と言ってへたり込んだ。
夕方が近づいていたが、蝶ヶ岳まではまだ登らねばならない。
小田原評定している余裕はなかった。おれはその少年に「お前のザックをよこせ」と言って、70リットルザックを2つ背負い、蝶ヶ岳までなんとか歩いた。
この日の行動時間は11時間を越えた。
予定では翌日、徳本峠まで行って幕営するはずだったが、その時点でみんなにそれだけの体力・気力は残っておらず、長塀山から徳沢へ下ったのだった。
ドラマに満ちた5日間が終わり、上高地からバスに乗ればもう、携帯とゲーム大好きないつもの若者たちに戻っていた。
ここから光城山までは車道を出入りしながら尾根を行く。
途中にはレストランか温泉みたいな建物もあって、山という感じがしない。
なんとなく落ち着かない道を行けば、光城山。
キアゲハがのびのびと羽を干していた。
植栽された桜の蕾はまだ硬かったが、かなりの人出だった。
ちょっと休む気になれないので、下山にかかる。
駐車場への下山道にも桜の苗がたくさん植えられていて、桜の名所化しようとしているのだろうと思われた。
それはよいが、裸電球まで張り巡らされているところを見ると、夜桜見物で客を呼ぼうとしているのかも知れなかった。
駐車場まではすぐだった。
下山後まず、穂高町の安曇野市天蚕センターの見学に行った。
明治10年に、秩父郡上吉田村の高岸善吉は信濃国安曇郡松川村の奥原万年から購入した山繭(天蚕)代金20円の支払いに窮し、家作・所持品すべてを処分したという史料がある。
天蚕の歴史にとって、明治10年とはどのような年だったのか。
天蚕センターでは、天蚕という虫の概要・飼育方法・天蚕繭から作られる織物類などが展示されており、周囲には飼育施設があって季節には飼育が続けられていて、天蚕製糸・機織道具なども稼働しているとのことで、ていねいに説明していただいた。
自分的に目を惹かれたのは、明治10年ごろ安曇野から茨城・栃木などへ出作り(出張飼育)が行われたという年表の記述だった。
善吉はおそらく、出張飼育を実際に見るかして天蚕に取り憑かれ、大きな賭けに出たのではなかろうか。
田代栄助もまた、明治17年夏に天蚕飼育に明け暮れていた。
栄助が天蚕に関する情報を得たのはどこからだったか、また蛾卵をどこから手に入れたかなどに関する史料は見つかっていないのだが、実際のところどうだったのだろうか。
次に、三郷村の義民記念館へ。
ここは、貞享3年の加助騒動の指導者たちを顕彰する施設である。
この騒動は、松本藩による理不尽な年貢増徴に対し、多田加助を始めとする村落指導者が中心となって起こした代表越訴型の典型的な百姓一揆である。
館長さん自ら個人レッスン状態で詳しく説明してくださったので、展示物と事件の概要はとてもよく頭に入った。
時代的には元禄の前、大名・旗本の支出が増えて財政難となり、新田開発が進んで年貢収入は増えたはずだが、そうならない大名領もあっただろう。
となると、殿さまにとって理不尽な増徴以外に採るべき手段はない。
事件の流れをうかがった限りでは、藩主(水野氏)側の対応はまったく稚拙で、要求を一旦承諾し、城代家老が請書まで書いておきながらそれを反故にして指導者たちを捕縛し処刑した。
この時点で公儀(勘定奉行)あたりに訴えれば、藩主側の非が明らかになったと思うのだが、百姓側が合法闘争の枠内での闘いにこだわったためか、このような理不尽な弾圧通ってしまい、加助ら一揆指導者と家族が処刑されてしまった。
加助ら一揆指導者は、明治以前から顕彰の動きが始まり、民権運動家の松沢求策による舞台(歌舞伎か)も行われた。
列挙しないが、顕彰運動の流れの中でいま、このように立派な記念館が作られているのだということが、よくわかった。
記念館の展示は、とても刺激的だった。
地域民衆が闘った記録は、次世代に伝えられなければならない。
秩父事件は、どうか。加助騒動にとても及ばないのが現状である。
松本盆地から望む常念岳は、周囲の高山を圧して飛び抜けて高く、純白で雄々しい。
常念岳を仰いで畏敬や憧れの思いを持たない人は、いないだろう。
常念岳のように生きよう、と子どもたちに呼びかければ、「はい」という元気な答えが返ってくるに違いない。
かつて、武甲山もそのような山だったはずだ。
盆地の入口に高く屹立して、人々を見下ろし、武田侵攻のような非常時には妖力によって侵略者を撃退した。
しかし、秩父の民はお金を得るために、武甲山を売った。
今の武甲山はもはや、山の姿をしていない。
秩父の民は子どもたちに、「武甲山のように立派な人になれ」とは言えないのだ。
秩父事件は、子どもたちに誇れる秩父の歴史遺産である。
それを語り継ぐのは大人の責任である。
加助騒動を学びながら、心は秩父に飛んでいた。
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