二幸園先の道路のいくらか広いところに自動車をとめて、尾根にとりつく。
この登りは、地形図を見ただけで憂鬱になるほどだったが、予想通りだった。
若いアカマツ林で、いかにも松茸山という感じの急な尾根が続く。
吉沢城址まで一本登りで、息も絶え絶えだ。
空堀を巡らせた城址で一息つくが、すぐにまた次の登りが始まる。
樹間から塩田盆地が望まれる。
ここは広大な耕地で、一帯を支配する中世武士団にとってはかけがえのない小天地だったことがうかがえる。
室町時代後半ごろの城だと思われ、山麓に居住していたのは、ここに根を下ろした武士団の頭目の一人だったのだろう。
厳しい登りが続き、たまらず腰を下ろす。
ちょっと前までは、急な登りでもゆっくり行けば息が切れることなどなかったのに、ここんとこ、じつに苦しくなった。
梵天山という山名版のあるピークあたりは少しラクだが、安曽岡山への最後の登りはとても苦しかった。
登りついたところに三角点があって、ピークはそのさらに先だった。
ここで大休止。
時間が早いので、もう少し足を伸ばして高ボッチへ向かう。
ようやく稼いだ標高を簡単に失い、鞍部へ。
高ボッチへは短いが、やはりひどい急登になる。
正面はまるで沢の高巻きで、とても登れそうに見えなかったので、鹿道利用で東の尾根に移動。
ここも急だが、立木を手がかりによじ登る。
たどり着いた高ボッチも、削平されたような地形で、おそらく城跡だと思われる。
攻めるのは困難だが、将兵がここまで登るだけでも容易でないから、ちょっと使えなかったのではなかろうか。
一息入れて、鞍部へ戻る。
下りはマーキングのある正しいルートを下った。
鞍部から前山寺への破線を下った。
ここは廃道で、道形はすぐに消えたが、鹿道を拾いながら行けば、特に問題なかった。
林道に出るとまもなく、弘法山登山口。
このあたりから草花を見ながら歩いた。
キバナアマナ・イワボタン・アズマイチゲ・ヤマエンゴサクなど。
パノラマ展望台への道は、歩行するぶんには特に問題なく通れた。
ふきのとうやこごみが出ており、たらっぺももうすぐといったところだった。
下山後、まずは安曽神社へ。
地域の地頭だった吉沢氏の守り神だったのか。
随神門が立派だ。
前山寺は二度目。
境内は美しく掃かれており、茅葺きの本堂も、満開の桜を配した三重塔もみごとだった。
月曜日だから多分休みと思ったが、無言館は開いていた。
大切に守られてきた絵を見ながら、ウクライナで美術館にミサイル攻撃される現実が想起されて仕方がなかった。
最後に生島足島神社も再訪した。
塩田平周縁に数ある小城址は、吉沢氏のような在地の武将群のものだった。
彼らを束ねていたのが村上義清だったのだろう。
村上義清の強さとは、小県郡に蟠踞する在地の武将群を確実に掌握していたからだった。
信玄は村上義清を追い払った後、彼らを配下に組み込んだわけだが、生島足島神社に残る大量の起請文は、要衝だったこの一帯の安全を担保するものだったのだろう。
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