− 志賀城址 − |
【年月日】 | 2012年4月8日 |
【同行者】 | 全部で3人 |
【タイム】 |
駐車場(10:42)−志賀城址(11:39-12:04)−駐車場(13:14) |
【地形図】 | 御代田 ルート地図 |
戦国時代の佐久は、甲斐の武田・上州と越後の両上杉にはさまれた在地の土豪たちが、自らの自立性と生存をかけて、政略と戦争に明け暮れていたようだ。 東信濃から善光寺平にかけての一帯には、甲斐の武田や越後の長尾(上杉)のように広範囲を支配した武将がおらず、真田や村上のような地域権力者のもとで、群小の土豪たちが数多の山城に拠って蟠踞していた。
彼らにとって、所領すなわち、自らが草分けとして作りあげてきた小世界をいかに維持するかが、唯一にして最大の課題だった。
佐久地方は上信国境に位置していたから、上州に拠点を持つ関東管領上杉氏と北上をめざす武田信玄が対立する最前線となった。 志賀城の笠原新三郎は上杉方に与していたため、信玄の憎しみを被り、籠城したが陥落した後、男はもちろん、女や子どもまで徹底的に処断されたという。
小学校跡に自動車をとめさせてもらい、周囲の風景を眺めながら、通りを行く。
一帯の人家には、長屋門を構えた立派なお宅が多い。 看板を見て左折するとすぐに雲興寺で、右手の細い道を登っていくが、新しい墓地を造成しているのか、重機が入っていて、城跡への道はすぐにわからなくなった。
今にも落ちそうな大岩など、面白いものもあるのだが、道がわからないことには仕方がない。
何の変哲もない雑木の斜面なのだが、造成地から城跡に向かって、火の走ったあとがある。
トラバース気味に登って行くと、岩壁が切り立ってき、唯一緩やかな頂稜の西側から登っていくようになる。
人為的に積んだと思われる石垣や曲輪跡らしい平坦地や、空堀なども各所に見られて、いかにも山城の跡らしい。
大量の水を背負いあげたのに、肝心のラーメンを忘れたのは、うかつだった。
雲興寺まで戻ったのち、笠原新三郎清繁の首塚を探したが、あいにく見つからず、帰途につくことにした。
帰りに初谷鉱泉に寄ったが、なかなか強いお湯で、しばらく浸かっていたらフラフラになってしまった。
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