−岩櫃山− |
【年月日】 | 1994年11月27日 |
【同行者】 | 単独 |
【タイム】 |
密岩通り入口(9:47)−岩櫃山(10:27)−岩櫃城趾 |
【地形図】 | 群馬原郷 |
密岩登山口から、南面の大岩壁を見あげながらゆるゆる登る。
とりつきから鎖場をまじえた急登が続き、息があがってしまうが、ゆっくり行っても20分ほどで尾根の上。
ほぼ360度すべてが見渡せた。
東側への下山ルートは垂直の巨岩の間を縫う下り。
そこには解説板があって、それを読むと岩櫃城の歴史は大きく三つに分けられ、はじめにここを支配したのは建久年間以降在城した「前の吾妻氏」と呼ばれる一族で、下野横領使藤原秀郷の三代の孫従五位下左馬允兼光の七代の孫兼助(吾妻権守上野介と称す)の子兼成(吾妻権守と称す)の八代の孫吾妻太郎助亮であったとある。
助亮が尾張で戦死したのち、その子助光(吾妻四郎と称す)が嗣いだがやがて滅亡したとあった。
その直後、延応年間になると下河辺庄司進行家が岩櫃の妖賊を戮した功により城を領することになった。
行家の孫行盛が碓氷の里見氏と戦って敗死したのち、その子の千王丸が榛名の僧房に逃れ、やがて安中城主斉藤五郎梢基により姓を冒し斉藤太郎と称したのち、上杉憲顕に閲し憲行と称し、延文年間に榛名の僧兵の援助を借りて仇敵里見を討ったとあった。
その後海野能登守が憲行五代の孫基國を越後に追ったのち、真田昌幸の配下に入り、矢沢薩摩守を城代としたが、元和二年に徳川氏によって城を破却され、岩櫃城の歴史を閉じたという。
説明板を筆写していたら、底冷えがしてきたので、腰を上げた。 |