相変わらず地図が読めない
− 仲山城址と大槻峠 −
【年月日】 |
2019年11月29日 |
【同行者】 |
単独 |
【タイム】 |
樋口駅(10:28)−日本一の板碑(11:02)
−仲山城址(11:32-11:54)−矢那瀬の石幢(13:01)
−八幡神社(13:14)−大槻峠(13:53)−波久礼駅(14:36)
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【地形図】 |
鬼石 寄居 ルート地図
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自動車を波久礼駅におかせてもらい、電車に乗って樋口駅へ。
まずは応安の板碑を見る。
呆れるほどでかい板碑だが、青石の産地近くだからこれを作ることも可能だったのだろう。
これから向かう仲山城を築いたのが阿仁和基保で、その子阿仁和直家が延文2年(1357)に敗死したのち、夫人の芳野御前が直家供養のため建立したと伝えられる。建立年は応安2年(1369)と、かなり古い。
ところで、口伝によると、阿仁和直家は侍女との恋のもつれから秋山城主秋山継照と戦って死んだことになっている。そうすると、直家は不倫していたと想像されるのだが、それでも芳野御前はこの立派な供養塔を建ててあげたのだろうか。
この疑問を解くのはとても難しい。
応安の板碑から山に向かってしばし歩けば、仲山城への道標を見る。
道もあるのだが、すぐ上に送電鉄塔があって、これはどう見ても鉄塔の巡視路だろうと思われる。
それでも、不鮮明な踏み跡を見ると入り込みたくなる性はやみがたく、鉄塔下へ登ってみる。
やはり道のついているのはここまでだった。
ヤブの薄そうなところを選んで登っていくと、ちょっとした社もあり、踏みあとも出てきて、仲山城址へ導かれた。
曲輪も空堀もよく残っており、典型的な山城だ。
となると、これが南北朝期のものだという説には、かなりの無理があると言わざるを得ない。
城跡のあずま屋で大休止にした。
北西への尾根はなだらかで、空堀を構えているとはいえ、ここは弱点だっただろう。
鞍部に降りたのち、城の北側を回る破線路を探したが、存在しないようだった。
カタクリ群生地の看板のあるあたりはカエデの紅葉が美しかった。
諏訪神社を見たあと、いったん国道に出るが、児童通学路になっている旧秩父往還を行く。
石垣のかなり崩れたところもあるが、庚申塔や二十三夜塔・青面金剛などがひっそりと立っていた。
矢那瀬に出たのち、喜田窪地蔵堂前にある矢那瀬の石幢を見に行った。
遠くから見ると石灯籠のようだが、これも庚申供養塔で、中ほどに石車がある。
この車を一度回せば、「南無阿弥陀仏」と一度唱えるほどの利益があるとの説明板があったが、一回転で念仏一度分とは、ちょっと釣り合わないように感じた。
その先すぐに八幡神社。
ここを左折して大槻峠へ向かう。
人家のわきを抜けてちょいとルートを失ったが、すぐに石造物の立つ、沢沿いの明瞭な道を見つけた。
地図をよく確かめるまでもなく、これが大槻峠道だと確信してそちらを進んだ。
いささかヤブっぽく、足元が荒れているのは、歩かれておらず、先日の出水の影響もあるからだろうとさほど気にせず登っていくと、ひどく荒廃した竹林に突入した。 枯れた孟宗竹が縦横に倒れており、やっかいなつる植物が絡んでいる。
通過困難な状況になったのだが、この谷は大槻峠にいく沢のひとつ西の谷なのだった。
ヤブを抜けてイノシシ道を行くと、明瞭なトラバース道に出ることができ、峠の直下で本来の峠道に出た。
波久礼駅まで尾根を行こうかと思っていたのだが、この藪こぎでかなり消耗したので、ここは正規の峠道を退却することにした。
30年前に地元の方に教わって大槻峠へ登ったのだが、さすがに記憶は全くなかった。
こちらは荒れたところはなく、峠道としてまだ十分機能する状態だった。
波久礼駅手前の荒川べりは、紅葉が盛りでなかなか美しかった。
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