初詣を兼ねて
−金鑚御嶽山−

【年月日】

2011年1月7日
【同行者】 Uさん
【タイム】

金鑚大師駐車場(12:20)−金鑚大師(12:25)−金鑚神社(12:55)
−護摩壇あと(13:29)−御嶽城跡(13:48)−金鑚大師駐車場(14:44)

【地形図】 藤岡 鬼石 ルート地図

金鑚大師山門
境内の籠店

 神川町の金鑚神社と金鑚大師にに行ってきた。  まずは、金鑚大師(大光普照寺)から。
 こちらの方が現世利益があるのか、人出は神社よりずっと多かった。
 門前には刃物屋さんが、境内には籠屋さんが、それぞれ品物を並べていて、肝腎のお参りよりも、こちらの方が気になった。

 自動車はそのままにして、今度は金鑚神社へ。

金鑚神社拝殿
多宝塔

 二つの寺社は、かつては一体だったのだろう。
 神仏分離は、列島民の心を無残に引き裂いたのだという思いが強い。
 江戸時代の仏教が形式化し堕落していたという点は概ねその通りだろうが、それに対する神道側からの原理主義的批判は、紅衛兵による共産党批判を思い起こさせる。

 境内に入ると、立派な多宝塔が目を引く。
 1534(天文3)年の建築だから、たいへん古いものだ。

 拝殿の後ろには本殿らしき建物も見えるが、それは本殿ではなく、裏の御嶽山が神体なのだという。

 拝殿の先で道が二つに分かれる。
 左に登っていく道は、鏡岩経由で山頂に向かう。

 こちらに入ると、あまり感心しないたくさんの句碑が並ぶ中を、緩やかに登っていく。
 右側の岩場にバラ線が張られたところに来ると、鏡岩。
 御嶽山が急激に隆起したときにできた断層の跡だという。

句碑の道
展望台(護摩壇あと)

 その先少しで、石仏がたくさん立つ十字路を経て、山頂下の広場。
 ここには東屋とベンチがある。

 石仏群は、江戸時代後半のものらしく、ほとんどが観音だが、釈迦像もあるやに見えた。
 かつては全部で88体あったというから、やはり観音なのだろうか。

 広場から左の岩場の基部をトラバースし、ひと登りで岩峰の展望台。
 説明板には、ここはかつて修験者が修行した護摩壇あとだとある。
 ピーク上の台座だったと思しき石は、ずいぶん風化しているが、「蔵王明神」という字が読める。

展望台から筑波山が見える
テイカカズラの種子

 標高は低いが、秩父山地北端の岩峰だから、展望は雄大で、浅間隠山から小野子三山、春名山塊、子持山、赤城山などが見えた。
 真東やや南に見えるのは、筑波山だ。

石仏1(大きな写真)
石仏2(大きな写真)

 風が冷たいとはいえ、しばらく好展望を楽しんでから、ゆるゆると下山にかかる。
 来たときの十字路からご神体でかつ中世の山城だったという御嶽山に登ってみたが、見るものは何もなかった。
 三角点の先にも踏み跡があったので、少し下ってみたが、あまり思わしくなかったので、来た道を戻り、法楽寺あと経由の下山道に入る。

 法楽寺は、明治初年まで存在した修験寺院だという説明が立ててあった。

 整備された道を下って行くと、テイカカズラの種子がそこらの枯れ草に付いていた。
 よく飛ぶうぶ毛を付けたそれは、この時期の里山でよく見る。

これはひどすぎる
木村九蔵の頌徳碑

 拝殿に戻ったら、「山火事注意」の看板が庭木にめり込んでいるのを見た。
 これはいくらなんでも、ひどすぎる。

 駐車場に戻る前に、木村九蔵の顕彰碑を見に行った。
 児玉町の木村九蔵は、明治初年に、温度・湿度を管理できる高窓式蚕室を考案して、科学的な養蚕法を確立させた人物で、かつて本に書いたこともある。
 その人物が、郷土で顕彰されているのは、心強いことだ。

 ちょっとした初詣のつもりだったが、いいものをたくさん見ることができた一日だった。