信玄史跡をめぐるヤブ山コース
− 大蔵経寺山から要害山 −
【年月日】 |
2010年11月9日 |
【同行者】 |
単独 |
【タイム】 |
石和温泉駅(8:12)−大蔵経寺(8:27)−山梨岡神社(8:44)−大蔵経寺山(10:00)
−防火帯(10:22-10:28)−岩堂峠(12:00)−深草観音(12:08-12:24)
−要害山(13:11)−武田神社(14:09)
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【地形図】 |
甲府 甲府北部 石和 塩山 ルート地図
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山梨岡神社鎮座跡
| コウヤボウキ1
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石和温泉駅から東に向かい、踏切を渡る。
最初に大蔵経寺に行ってみた。
お寺は、巨大なパチンコ屋の裏にあったが、とても新しいお寺で、どこを拝観すればいいのかもわからなかったので、掃除をしていたご住職らしい人にあいさつをしただけで早々に退散した。
茶色く濁った川に沿って歩いていったが、つぎの破線路の入口らしいところがわからなかったので、山梨岡神社の裏からとりつこうと考えた。
山梨岡神社の裏手に破線路があるはずだが、ごく薄い踏み跡はあるものの、登山道らしい道は見あたらなかった。
アズマネザサが次第に密生するようになり、倒木もあって歩きづらくなったあたりに、御室山 山梨岡神社鎮座跡という石碑を見る。
電灯が点々と建っているので、道もありそうなものだが、ちゃんとした道はなく、雑木とアズマネザサの中、イノシシ道を拾いながら登っていくと、西側の破線路と合するあたりで、麓からもよく見える巨大な擁壁のへりに出た。
コウヤボウキ2
| 大石と石祠
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ここからはまともな踏み跡となり、さらにしばらくで登山道らしい道に出た。
傾斜がゆるむと山火事跡で、焦げた木が転がる中に、アカマツやスギが焼け残る一帯を通過する。
二つの大石のあいだに小さな石の祠が祀られてある。これはなんだろう。
形からは、生命信仰に関する祠であるように思ったが、どうなのだろうか。
植林地に入ってしばらくで、展望皆無の大蔵経寺山だった。
休む場所もないので、そのまま通過。
雑草の刈られた広い防火帯で腰を下ろした。
さらにしばらくで、大堺と彫られた石があった。
これは、何の堺なのか。
これもどういう意味があるのか、まったくわからない。
前方には南アルプスが見えているが、頂稜部には雲がかかっていて、どこが見えているのか、よくわからなかった。
富士山は樹木の陰になってしまい、まったく見えなかった。
ここからは長い尾根歩きとなる。
尾根の東側には植林が多いが、西側はいい雑木林で、30〜40年生かと思われる、立派なコナラ林が続いていた。
ダンコウバイの葉(大きな写真)
| よい雑木林だがきのこはなし
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大岩園地分岐を過ぎると、巻き道に入り、990メートル峰には登らずに鞍掛峠。
その先も巻き道が続いて、遊歩道のような雰囲気である。
曲がったコナラ
| コアジサイ黄葉
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湧き水を見ると、登り按配となり、岩堂峠の十字路に着く。
大きなアカマツが2本生えており、峠のすぐ下にも水の垂れる音が聞こえるが、陽が当たらないので、寒々しい。
少し下ると深草観音で、ここには清水もあるから、水を汲むならここがよい。
石灯籠の間の石段を登っていくと、垂壁の基部にたくさんの観音石仏がおかれていた。
建物はあるがこれは、お堂でない。
深草観音の千手観音
| 古いハシゴがかかる
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石を刻んだ階段を登り、ややトラバースした先の石穴をくぐリ降りた石窟の中がお堂なのだった。
これには驚いた。
石の階段でなく、ハシゴを直登しても石窟に入れるのだが、古いハシゴである上、高度感もあるので、とても登る気にはなれない。 そこここにおかれた石仏は、三十三観音だと思われるが、全部そろっているのかどうか、わからなかった。
参道と思しき道を下っていくと、要害山の分岐。
地形が複雑なので、どういうルートなのかと思っていたら、登り下りのほとんどないトラバースで、要害山の尾根に至るのだった。 尾根の上は既に、要害城の一角で、空堀などの跡が次々に出てくる。
石垣などもよく保存されていて、要害城とは、躑躅ヶ崎の居館が攻撃された際の砦だったことがよくわかった。
土塁のある砦跡からは、ところどころに設けられた曲輪を見ながらジグザグに下っていく。
積翠寺集落からのバスは、しばらく来そうになかったので、武田神社まで歩いて下った。
古い石垣の残る要害城址
| 棚田ごしに見た要害城址
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安土・桃山時代の大規模な城郭建築と比較すると、武田の居館は圧倒的に小さく、城下町も、主たる武将の屋敷がある程度で、規模は微々たるものである。
それで織田や徳川に匹敵する軍事力を保持していたのだから、驚くべきことだ。
武田の遺物を展示した宝物館も拝観したが、十分見ごたえのある展示だった。
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