登山口を探すのに、たいへん手間どってしまったので、歩き始めたのは、2時半を回っていた。
登山口にはりっぱな駐車場があった。
ハイカーは、だれもなし。
時間があれば、一の鳥居から歩いてみたかった。
登山道入口に、後生車なるものがあった。
願い事を念じながら、この車を回すと、それがかなうそうな。
ほんとかなぁ。
そう思いつつ、後生車を回す、おれだった。
登山道はずっと、スギ林の中で、見るものがない。
不動石、畳石、烏帽子石など、それなりの奇岩が、登山道沿いに点在。
それはそれで、なかなかおもしろい。
ひと登りで、早くも山頂直下の山門。
この山門は、とても不思議で、神像が鎮座しているのに、奥の方には仁王の像があるのだった。
下山後に、登山口の説明版をみたところ、廃仏毀釈のときに、仁王像を守るために、右大臣・左大臣の神像を表に出したんだそうな。
堅破山の大ブナ
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それなら、信教の自由が確立した(はずの)今は、仁王像を前面に出してもよさそうなものだ。
それでもなお神像が前面に立っているということは、まだ仏像が大手を振って復権できいないということか。
それとも、元来、神仏が混淆していたこの国の信仰にとって、そんなのはどうでもいいことなのか。
石段を登りつめると、釈迦堂の広場。
神社なのに、釈迦堂とは、これいかに。
明治以前には、別の名称であったのだろうか。
それとも、以前から神仏混淆していたのだろうか。
たぶん、後者だろうと思う。
山頂の一角に、りっぱな本殿。
ここで、拝礼。
祭神は、黒坂命。
由来書きには、東夷征討の帰途、当山に立ち寄り、客死したとあった。
この一帯には、ことのほか凶暴な部族が住んでいたとも。
なんのことはない。
そのむかし、このあたりに住んでいた人々は、どこの馬の骨とも知れない征服者づらした連中に対し、果敢に抵抗したのである。
権力者は常に、歴史の偽造につとめる。
偽りの歴史が、いつか定着することもある。
抵抗者の子孫が、生活と自由を守ろうとした自分たちの祖先を野蛮人(東夷)呼ばわりし、征服者を神とあがめるようになったのも、また歴史なのである。
山頂付近はアカマツが繁っていて、螺旋階段の展望台があった。
南方向、日立の山がよく見えたが、東側は木が茂り、北から西は、雲に隠れていて、よく見えなかった。
午前中は暖かかったのに、前線通過のせいで、たいへん冷たい西風が吹いており、ゆっくり休む気にならなかった。
山頂の西側斜面は、新しいスギの植林地。
その先の太刀割石は、一見に値する奇岩。
まさに、一刀のもとに切り落としたように、石が割れている。
こちらには、八幡太郎義家の伝説。
阿武隈からこのあたりにかけての山には、八幡太郎伝説がもとても多い。
いつの時代にか、組織的な捏造屋集団が、でっち上げて回ったものなのだろう。
太刀割れ石から山門にかけて、何本かの、とてもりっぱなブナの大木に出会うことができた。
樹齢200〜300年くらいか。
山門下の窪地に、細いながらも、わき水が出ている。
水の流れこそ、人の暮らしのもとである。
堅破山が貴いのは、祭神某が貴いのではなく、周囲の村々に農業と生活のための水をもたらしていたから貴いのだと思う。
この日は寒すぎたので、この次には時期を変えて、ゆったりしたコースで歩いてみたいと思った。