不動岳から唐沢山・大鳥屋山・岳ノ山

【年月日】

1996年3月3日
【同行者】 単独
【タイム】

五丈ノ滝駐車場(9:10)−MTB−明光寺入口(9:40)
−不動岳北(11:26-11:41)−唐沢山(12:38)−
大鳥屋山(2:13)−岳ノ山(3:14)−駐車場(4:03)

【地形図】 仙波

大鳥屋山から岳ノ山を望む
不動岳の石祠

 一八八四(明治一七)年、埼玉県秩父郡で数千人の武装農民による革命戦争、秩父事件が起きた。
 この戦いの主力は秩父郡内の農民だったが、御荷鉾連山周辺から妙義山塊にかけての地域、すなわち現在西上州と呼び慣わされている地域や、信州佐久の名峰御座山のふもと南佐久の農民もはるばる参加している。

 この事件の性格や経過については、諸々の史書をひもとかれたい。

 ところで、とある書物を調べていたとき、私は、この秩父事件に二名の栃木県人が参加しているのに気がついた。
 そのうちの一人は、野州安蘇郡秋山村の人。
 名前は影山久造、事件当時の年齢は弱冠二十歳、専制政府転覆の盟約書に血判まで捺した人物である。

 彼に関する史料は、「暴徒未決者名籍」という簡単なプロフィールを記したものと「裁判言渡書」の二点しかない。
 これらの史料から影山久造がなぜ秩父事件に参加していったのか、そもそも秋山村平民の彼がなぜ秩父にいたのかなどの事情を推察することは不可能だ。

 でもとりあえず、秋山村とはどういうところなのかだけでも見てみたいと思い、葛生町秋山を訪れてみた。
 めざす山は安蘇の一等三角点峰、大鳥屋山。

 自動車を岳ノ山登山口である五丈の滝駐車場に止め、MTBで常盤中学校のわきから秋山川を渡った小屋集落までサイクリング。

 ほんとうは不動岳に直接とりつきたかったのだが、不動岳の山腹一帯がサンモリッツゴルフ場になっていたので、ずっと南の354水準点から縦走を開始した。

 小屋集落の山ぎわにある明光寺のわきを通り、道なりに進むと、広い畑のわきを抜けて沢沿いに登るしっかりした仕事道。
 これをつめていくと、やがて稜線の下で道形が消えた。
 いつもはこういうところからヤブこぎが始まるのだが、うれしいことにヤブは薄く、傾斜もさほどではない。
 ほどなくヤブ尾根の一画に登り着いた。

 この日のルートは北西方向だが、踏みあとはおおむね不鮮明なので、随所で地形図とコンパスを参照した。

 354水準点から西に向かうと、南側が新しい植林地で見晴らしがよく、田沼町方面が見渡せるが、目の下はサンモリッツとは別のゴルフ場なのであまり気分はよくない。

 その先の小ピークには嘉永二年に作られた小さな石祠。
 「世話人 立川忠蔵 石川紋蔵 落合沢右エ門」と刻まれていた。
 山岳信仰の遺跡なのだろう。

 このあたり踏みあとは消えぎえだが、町界を示す赤いコンクリート杭があるので、それをめあてに歩ける。
 378三等三角点ピークはヤブも濃くなく、気持ちのよい日だまりで、ゆっくりしていきたいところだが、この日は先の歩程も長いので通過。

 不動岳は腰をおろすところもないヤブのピークだが、嘉永六年の石祠が忘れられたようにおかれていた。
 これをここまで持ち上げるのだって大変だっただろうに。
 奉納者は立川勇右エ門という人だ。

 不動岳を過ぎると、さすがに疲れてきたので、少し行った460メートルほどのピークで大休止。
 ここは植林の中のピークだが、三つの石祠がおいてあり、供え物もしてあった。

 ルートに気を使いながら登りつめると、唐沢山。

 この日初めての山名表示板のあるピークだ。

 ちょっと長い急登をがんばると、576メートル水準点。
 以前内閣官房長官をやっていた女性代議士の、腐りかけたポスターが貼ってあった。
 支持者のハイカーによるものか、「みんなで応援しよう」などという落書きがしてあったが、うんざり。

 ここには、榛名山と彫られた明治三年の石祠。
 このあたりの人は、榛名山に登拝する代わりにこのピークに登ったのだろう。

大鳥屋山山頂
 唐沢山からは道形もずいぶんはっきりしてくる。
 大鳥屋山が近くなった小ピーク(297水準点からの破線が西から登ってくる峠の南のピーク)からの下りはヤブがひどくちょっとわかりにくいが、しばらく下ると新しい植林地になり、男体山や女峰山、根本山などが望まれた。

 田沼町と葛生町を結ぶ峠はしっかりと踏まれている様子で、風化しかかった地蔵様と「天明五年七月吉日奉加造立」という石碑、あともう一体風化してしまった石造物がおかれており、赤テープがそこらへん一帯に巻かれていた。

 ここからの道は明瞭で目印もたくさんあるので迷いようがないのだが、今度は長い急登で登りがつらい。

 ようやく登り着いた大鳥屋山の肩周辺は安蘇らしい自然林がわずかに残っていて気分がよかった。

 たどり着いた大鳥屋山の広い山頂には雪が残っていた。
 風格を感じさせる一等三角点はりっぱだが、展望は皆無。
 「百周年記念 御嶽大神 昭和二十一年建之」という石碑と字の読めない石祠、天保十二年の銘の入った石祠があった。

 大鳥屋山への登りの途中でずいぶん疲れたので岳ノ山はカットしようかなと思い始めたのだが、小休止で元気が出たので、さらに北西へ。
 新しい植林地からは、北から西への展望が広がる。
 日光連山や赤城山も見えるが桐生川周辺の山の上に頭だけ出しているかっこうだ。
 氷室山、根本山、野峰などが近く見える。
 ここから見ても野峰はりっぱだ。
 多高山や赤雪山なども見えているはずだが、ごちゃごちゃしている上、傾きはじめた西日の逆光になって判然としない。

 岳ノ山への登りは露岩の多い急登だが、両手両足を使って登るので、足だけで登るよりずっとらくだ。
 こっちは岩が多いので大展望を期待したが、登りつめたところは雑木に囲まれた小さなピークだった。

 展望には恵まれないが、しずかなところだ。
 山頂に石祠と不動様の石像があり、少し東に「御嶽山巴講中」の銘のある石祠があった。
 岳ノ山の「岳」とは御嶽山のことだったのだ。
 秋山村の人々は、岳ノ山に登って、はるか御嶽山への信仰をあたためていたのだろう。

 ここの石造物には荷造りテープで小さなひょうたんがくくりつけられていて、刻まれた文字が読めない部分もある。
 たぶん登山者がしたのだろうが、こういう行為は昔の人の山岳信仰に対する冒涜である。
 不動様は五丈の滝で修行する修験者の象徴なのだろう。
 斎戒沐浴してがんばっているはずが、酒入りひょうたんなんか持たされた不動様がお気の毒で、しかたがなかった。

 五丈の滝は、渇水のためほとんど水流なし。
 なかなかハードなコースだった。

 「白鉢巻白襷ニテ味方ノ目標ト為シ他人ヨリ預リタル袴ヲ穿チ刀ヲ携ヘ暴徒ニ随行」(裁判言渡書)しただけで罰金六円という異常に重い刑を受けた秋山村の青年影山久造のことは、今なお謎につつまれたままである。