太田金山

【年月日】

1995年2月12日
【同行者】 単独
【タイム】

タイム不明

【地形図】 上野境 足利南部 桐生 足利北部

 金龍寺前の市営駐車場に車を停め、少し車道を歩くと、ホタルを養殖しているという看板を見る。その先道標らしきものはなにもないが、木でできた階段が見えたので、そこを登っていく。周囲はほとんどアカマツ林だ。

 ところどころに玉切ったアカマツを積んでビニールをかけてある。これは松食虫の駆除をしているのだそうだ。小ザサも生えているがおおむね下刈りされた松林だ。ところどころアセビやアオキ、ツツジもあるがこれは植栽されたもののようである。

 ほんの少しであずまやに着く。わきには水道も引いてあり、市街地と何の変わりもない。ここで早くも大休止。初老のハイカーが何組か行き過ぎていく。
 あずまやから大駐車場のある西城というピークまでは5分ほどだった。休日とあって家族連れでなかなかにぎわっている。金山は山全体が新田氏ゆかりの山城のため、あちこちに古城の史蹟の標柱が建てられている。

 尾根をさらにしばらく行くと、三角点があり、西側の展望が開ける。すぐ下には遊園地があり、スピーカーの音がうるさい。榛名山方面はもやがかかっており、まったく見えなかった。

 新田神社のある山頂は三角点より少し高い。ちょうど池の改修工事をしているらしく、重機がおいてあり、興がそがれる。山頂の一画まで自動車で登っている人もいた。大きなケヤキの横から石段を登ると、山頂の神社に着く。由来書の看板がある。

 新田氏が金山城を築いたのは平安末期だという。しかし平安末期にこのような山城が築かれたというのはどうかと思う。
 南北朝の動乱以後新田宗家は滅亡する。が由来書には、その後室町中期の文明元年(一四六九)に新田家純が再興したとある。
 その新・新田氏は享禄元年(一五二八)新田昌純が家臣の横瀬泰繁に殺害されて滅亡、横瀬氏は泰繁の子成繁の代に由良と改姓、新田郡のみならず両毛一帯を支配下におさめる。戦国時代真っ只中のこの時期が金山城の全盛期だったと書いてあるが、地形からみても戦国時代にぴったりの城である。

 その後、由良氏は天正一二年(一五八四)に後北条氏の攻撃を受け、金山城を明け渡して桐生城へ退去する。しかし後北条支配下の金山城も長くは続かず、天正一八年(一五九○)の後北条氏滅亡とともに廃城となった。
 中之条の岩櫃城もそうだったが、関東平野周縁のちょっとしたピークには中世から戦国時代にかけて在地の武士たちが華々しく興亡した歴史があって、興味をそそられる。

 帰りは金龍寺の境内を通るコースをとった。本堂の裏手には東京帝国大学教授中村孝也の撰文、文部大臣中島知久平の揮毫による「新田公殉節六百年記念碑」が建てられていた。これは太田町放賛会が昭和一三年(一九三八)五月二二日に建てたもので、「義貞公ハ臣道ノ精華ヲ専揚セル忠臣ナリ」とか「叛族足利氏」などという狂的な字句が踊っていた。こういうのこそ、歴史とは無縁のデマゴキーそのもので、とても不愉快だ。

 小さな山なので駐車場まで30分もかからなかった。